資治通鑑唐紀五十五 憲宗 元和七年 807年

冬十月 魏博の帰順と朝廷の対応

  • 魏博監軍が、魏軍が田懐諫を退けて田興を立てた事情を奏上した。憲宗はただちに宰相を召し、ことに李絳へ、魏博の情勢判断が見事に当たったと語った。
  • 李吉甫は中使を派遣して慰撫し、現地の変化を見極めるべきだと述べたが、李絳は反対した。いま田興は土地・兵衆をそのまま朝廷に委ね、命令を待っているのだから、この機会に朝廷側から先んじて信任を示すべきで、使者の帰還や現地からの正式な請願を待って節鉞を与えるのでは、恩が下から出た形になってしまうと論じた。
  • 梁守謙ら宦官勢力は先例どおり中使派遣を主張し、憲宗は張忠順を魏博へ送った。しかし李絳は重ねて上奏し、機会を失えば取り返せないと強く説いた。
  • 憲宗はこれを容れ、田興を単なる留後ではなく、格別の恩として魏博節度使に抜擢した。詔命は張忠順の帰還前に魏州へ届き、田興は感涙し、将士も大いに奮い立った。

皇子の改名と魏博への厚賞

  • 庚戌、皇子の名を改め、寛を惲、察を悰、寰を忻、寮を悟、審を恪とした。
  • 李絳はさらに、魏博が半世紀近く朝廷の教化から離れていたのに、一挙に六州を挙げて帰順したのは河朔反乱勢力の中枢を崩す大功だとして、重賞を主張した。
  • 宦官たちは前例化を恐れて反対したが、李絳は、たとえ大金でも人心を得る利益に比べれば小さく、もし兵で六州を奪うなら費用はその比ではないと説いた。
  • 憲宗も、倹約して財を蓄えているのはまさに天下平定のためだと応じた。

十一月 裴度の宣慰と魏博の制度復帰

  • 辛酉、知制誥の裴度を魏博へ派遣し、慰問とともに銭百五十万緡を軍士へ下賜した。六州の百姓には一年の租税・徭役を免除した。
  • 軍士は大いに喜び、成徳・兗鄆から来ていた使者たちは、強情を張っても利益にならぬと驚いた。
  • 裴度は田興に君臣上下の義を説き、田興は一晩中飽きずに聞き入った。田興は裴度を厚遇し、所属州県を巡って朝命を宣布してほしいと願った。
  • 田興は節度副使を朝廷から任じてほしいと請い、朝廷は河東の胡証をこれに充てた。さらに欠員の官九十人について中央の吏部による任命を求め、法令どおりの租税上納も願い出た。
  • 田承嗣以来の僭侈な邸宅は避けて住まず、鄆・蔡・恒からの遊説にも耳を貸さなかった。

韓弘・李師道の応酬

  • 李師道は宣武節度使韓弘に対し、田氏と李氏は代々助け合う約束があり、しかも田興は田氏の一族でもなく、河北の旧来の体制を破って朝廷に従ったのだから、これを討つべきだと持ちかけた。
  • 韓弘は、利害はともかく朝命に従うだけだと答え、もし兵が北へ黄河を渡るなら、自分は東へ進んで曹州を攻めると言ったため、李師道は恐れて動けなかった。
  • 田興は田季安を葬ると、田懐諫を京師へ送った。朝廷は田懐諫を右監門衛将軍に任じた。

振武・天徳の屯田策

  • 李絳は、振武・天徳の地には万頃に及ぶ良田があり、能吏を選んで屯田を開けば、軍費節減と食糧確保の両面で効果があると建議した。
  • 憲宗はこれを採用し、度支使盧坦に計画を進めさせた。その後数年間で大きな田地が開かれ、辺防財政の助けとなった。

官人任用をめぐる議論

  • 憲宗は延英殿で、官職は私的な縁故で用いてはならず、自分のために惜しんでほしいと宰相たちに語った。
  • 李吉甫・権徳輿はそのとおりだと謝したが、李絳は、才能を知る者が縁故だからと遠ざければ、かえって人材を失うと述べた。任用の基準は親疎ではなく、才器が職にふさわしいかどうかだと論じ、憲宗もその理を認めた。

吐蕃への備えと神策軍問題

  • この年、吐蕃が涇州城外まで侵入し、人畜を掠めて去った。憲宗はこれを憂えた。
  • 李絳は、京西・京北の神策鎮兵は本来、吐蕃に備え、節度使と連携して動くために置かれたのに、今ではぜいたくに養われるばかりで、寇が来ても中尉の指示待ちを口実に出動が遅れ、実効がないと述べた。
  • そこで、土地・兵馬・糧秣・器械を所在の節度使に属させて統一指揮にすれば軍威は立つと進言し、憲宗も直ちに実行すべきだとした。
  • しかし神策軍は長く驕って節度使の統制を嫌い、宦官の妨害もあって結局実現しなかった。