春正月 河北討伐の本格化
- 劉濟は自ら兵七万を率いて王承宗を討ち、諸軍がまだ進軍しない中で単独先行して戦い、饒陽・束鹿を攻略した。
- 河東・河中・振武・義武の四軍は恒州北面招討軍として定州に集結した。望夜に、外軍が来ているので灯火をやめるよう軍吏が進言したが、張茂昭は「彼らも官軍である」として、例年通り張灯を許し、夜禁も緩めた。三夜とも平日同様で騒乱はなかった。
- 丁卯、河東の将王栄が王承宗方の洄湟鎮を奪った。
吐突承璀の失敗
- 吐突承璀が行営に至ったが、威令は振るわず、王承宗との戦いではたびたび敗れた。
- 左神策大将軍の酈定進が戦死し、神策軍は大きく気落ちした。酈定進は勇将として知られていた。
元稹の事件
- 河南尹の房式に不法があるとして、東都分司の監察御史・元稹がこれを取り調べ、職務停止を命じた。だが朝廷は手続き違反と見て俸一季を没収し、西京へ召還した。
- 元稹が敷水駅に着くと、後から来た内侍が驛舎の門を破って怒鳴り込み、馬鞭で元稹の顔を打って傷つけた。
- 皇帝はこの内侍を処分せず、かえって元稹の以前の過失を持ち出して江陵士曹に左遷した。翰林学士の李絳・崔羣は元稹無罪を主張し、白居易も、これでは中使がますます外で朝士を陵辱し、御史も権勢を恐れて法を執らなくなると諫めたが、皇帝は聞かなかった。
三月 呉少陽の追認
- 河朔での戦いに手を取られ、淮西へ兵を向けられなくなった朝廷は、三月、呉少陽を淮西留後に任じた。李絳らが以前予見した通りの展開となった。
白居易、罷兵を進言
- 河北諸軍は長く功がなく、白居易は上奏して、そもそも河北での用兵自体が不当であり、しかも今や吐突承璀は苦戦するばかりで大将まで失ったと論じた。
- 盧從史の軍も承宗の地に入りながら進退逡巡し、張茂昭・范希朝も新市鎮から進めず、劉濟も楽寿を長く囲んで落とせないと指摘した。
- さらに李師道・田季安らは、表向きには協力しつつ実際は一県ずつ押さえて進軍しないだけで、互いに打算のうえで動いているように見えると述べた。
- このまま兵を引かねば、第一に莫大な兵糧と財貨を無益に河北諸侯へ流し込み、彼らをかえって強大にする。第二に、呉少陽が追認された以上、王承宗も同じ論で赦免を求め、朝廷の与奪が河北諸鎮任せになって威権が失われる、とした。
- また、夏の暑気による疫病や疲弊で神策軍が逃散し、さらに吐蕃・回鶻が内情を知って乗ずる危険も大きいとして、深く憂えるべきだとした。
盧從史の陰謀と捕縛
- 盧從史はもともと王承宗討伐を最初に唱えた人物だったが、いざ出兵すると逗留して進まず、ひそかに王承宗と通謀した。軍士には承宗方の合言葉を持たせ、さらに芻粟の価格を吊り上げて度支に売りつけ、私利をむさぼった。
- 朝廷には平章事の地位を求め、また諸道も賊と通じていて進兵できないと誣告し、皇帝を悩ませた。
- ちょうど牙将の王翊元が入奏した際、裴垍が語りかけて臣下の義を諭すと、その心が動き、盧從史の陰謀と捕縛の好機を密告した。裴垍は帰軍後さらに手配させ、都知兵馬使の烏重胤らも取り込んだ。
- 裴垍は、盧從史は狡猾で驕狠、吐突承璀を赤子のように侮って無防備なので、今捕らえねば後日の大患になると皇帝に進言した。
- 吐突承璀は珍奇な玩物を並べて盧從史の欲心を誘い、しだいに近づいた。甲申、承璀は行営兵馬使の李聴と計って盧從史を幕中に招き入れ、伏兵に突き出させて捕らえ、車に縛って夜のうちに京師へ送った。
- 盧從史の側近たちは驚き騒ぎ、軍士も武装して軍門へ押し寄せたが、烏重胤が詔命を掲げて鎮め、夜明け前に車は境外へ出た。
- 烏重胤は烏承洽の子、李聴は李晟の子である。
木刀溝の勝利と昭義の人事
- 丁亥、范希朝と張茂昭は木刀溝で王承宗軍を大破した。
- 皇帝は烏重胤の功を賞してそのまま昭義節度使にしようとしたが、李絳は反対し、河陽節度使に転じさせ、孟元陽を昭義へ移すべきだと主張した。
- 吐突承璀はすでに文牒で烏重胤を昭義留後にしていたため、李絳はこれを痛烈に批判した。昭義五州は山東の要地であり、朝廷がようやく取り戻した重鎮なのに、中使が勝手に牙将へ文書一本で授け、さらに節鉞まで求めるのは、君主をないがしろにする所業だとした。
- もしこれが通れば、諸鎮はみな自軍の将校が同様に主君を逐って地位を奪うことを恐れ、朝廷の紀綱は乱れると論じた。
- その後も梁守謙を通じて「やむを得ず烏重胤に節を与えるべきでは」と打診されたが、李絳は、盧從史もまた朝廷の外で帥となって乱を起こしたのであり、今また同じ轍を踏んではならないと退けた。
- 皇帝はこれに従い、壬辰、烏重胤を河陽節度使、孟元陽を昭義節度使とした。戊戌には盧從史を驩州司馬に左遷した。
五月 昭義軍潰走と各地の動き
- 五月、昭義軍三千余が夜に潰走して魏州へ奔った。これは盧從史の党与であった。
- 劉濟は安平を抜いたと奏上した。
- 吐蕃は使者の論思邪熱を遣わして入朝させ、あわせてかつて平凉の盟約で没した路泌・鄭叔矩の柩を返還した。
- 奚が霊州を寇した。
六月 再び罷兵論と学士召対
- 白居易は再度上奏し、いまや情勢は以前より悪化しているのに、なお兵を止めない理由がわからないと述べた。
- 当時、皇帝は軍国の大事ごとに学士へ諮問していたが、しばらく李絳らを召していなかった。学士たちは、飽食して黙るのは自分の身にはよいが、陛下に対してはそうはいかない、として召対を求めた。皇帝は翌日、三殿での対話を命じた。
- 白居易は以前の議論で皇帝の気色が変わったことがあり、皇帝は密かに承旨の李絳を呼んで「白居易は小臣のくせに不遜だ。翰林院から追い出したい」と言った。
- 李絳は、白居易は恩遇に報いようと命懸けで諫めているのであり、これを罰すれば天下の者がみな口をつぐむと諫めた。皇帝は納得し、白居易を以前通りに遇した。
- 皇帝は苑中での近猟を思い立つこともあったが、蓬莱池の西まで来て「李絳が必ず諫める」と言って中止した。
七月 王承宗の赦免
- 王承宗は使者を送って、盧從史に離間されたためであり、貢賦を納め、官吏の任命も請うので自新を許してほしいと弁明した。
- 李師道らもたびたび上表して王承宗の赦免を求めた。朝廷も長期戦で戦果が乏しいことから、ついに丁未、王承宗の罪を洗い、再び成徳節度使とした。徳州・棣州も返還され、諸道行営軍はすべて解散された。
- 諸軍将士には布帛二十八万端匹が下賜され、劉濟には中書令が加えられた。
幽州 劉緄殺害と劉總の簒奪
- 劉濟が王承宗を討つ際、長子の劉緄を副大使として幽州の留守を掌握させ、次子の劉總には瀛州刺史・行営都知兵馬使として饒陽に駐屯させていた。
- 劉濟が病気になると、劉總は判官の張玘、孔目官の成国宝と謀り、長安からの使者を装って「朝廷は相公の逗留無功を理由に、副大使を節度使に任じた」と偽報した。翌日には「旌節は太原に着いた」、さらに「代州を過ぎた」と誇張して軍中を動揺させた。
- 劉濟は激怒し、劉緄と親しかった大将数十人を殺し、劉緄を行営へ呼び寄せ、張玘の兄の張皋に留守を代行させた。
- 劉濟は朝から夕方まで飲食できず、水を求めると、劉總はその飲み物に毒を入れて差し出した。乙卯、劉濟は死去した。
- 劉緄が涿州に着くと、劉總は父の命と偽って杖殺し、自ら軍務を領した。
嶺南監軍と楊於陵
- 嶺南監軍の許遂振は流言で節度使の楊於陵を讒訴し、皇帝は楊於陵を召還して閑職へ移そうとした。
- 裴垍は、楊於陵は廉直であり、宦官の讒言だけで藩臣を退けるのは不可だと諫めた。丁巳、楊於陵は吏部侍郎に転じ、許遂振も間もなく罪に問われた。
八月 神仙談義
- 皇帝が宰相たちに「神仙は本当に存在するのか」と問うと、李藩は、秦始皇・漢武帝の求仙の末路や、太宗が天竺僧の長生薬で病んだことを挙げ、方士の説を退け、徳を盛んにし政治をよくすることこそ堯舜の寿を得る道だと諫めた。
九月 吐突承璀失脚
- 吐突承璀が行営から帰京し、再び左衛上将軍・左軍中尉となった。
- 裴垍は、承璀は戦端を開いて天下を疲弊させながら何の成果もなく、旧恩があるとしても、全く貶めずに済ませるわけにはいかないと主張した。
- 段平仲・呂元膺は「斬るべきだ」とまで言い、李絳も、敗軍の将を罰しなければ将来の軍紀が立たないと諫めた。
- 二日後、皇帝は承璀の中尉職を罷め、軍器使へ降した。中外はこれを祝い合った。
裴垍の病と権徳輿の入相
- 裴垍は風疾を患い、皇帝は深く惜しんで中使がしきりに見舞いに赴いた。
- 丙寅、太常卿の権徳輿が礼部尚書・同平章事となった。
義武の帰朝と任迪簡
- 義武節度使の張茂昭は、代地出身者を罷め、自分の一族を率いて入朝したいと願った。河北諸鎮は互いに人をやって翻意を勧めたが、張茂昭は従わなかった。
- 四度の上表の後、朝廷はこれを許し、左庶子の任迪簡を義武行軍司馬として派遣した。張茂昭は易州・定州の文書と鍵をすべて任迪簡に渡し、妻子も先に送って「子孫を汚俗に染めたくない」と言った。
- 張茂昭が去ると、十月、虞候の楊伯玉が乱を起こして任迪簡を幽閉したが、まもなく将士が楊伯玉を殺した。ついで兵馬使の張佐元も乱を起こしたが、これも将士が殺し、任迪簡を軍務の主に奉じた。
- そのころ易定の府庫も民間も空だったため、任迪簡は兵を犒う資もなく、自ら粗末な飯を兵卒とともに食し、月余り戟門に住んだ。将士は感激し、任迪簡に寝所へ戻るよう請うた。
- 皇帝は綾絹十万匹を易定の将士に賜り、壬辰、任迪簡を義武節度使に任じた。
- 甲午、張茂昭は河中・慈隰・晋絳節度使となり、従った将校たちもみな官を授かった。
伊慎の賄賂事件
- 右金吾大将軍の伊慎は、右軍中尉の第五従直に三万緡を賄って河中節度使を求めたが、事が漏れるのを恐れた第五従直が奏上した。
- 十一月、伊慎は右衛将軍に左遷され、この件で三人が死に連座した。
- 伊慎はもと安州から入朝した際、子の伊宥を安州刺史として留めていたが、宥の母が長安で死んでも、兵権を惜しんで喪をすぐ出さなかった。鄂岳観察使の郗士美が使者を通した際、伊宥はそこで凶報を聞かされ、あらかじめ用意していた籃輿で即日帰らされた。
王鍔への宰相加官を阻止
- 甲辰、会王李纁が死去した。
- 庚戌、前河中節度使の王鍔が河東節度使となった。皇帝の側近たちは王鍔から厚い賂を受けて、その有能さをしきりに称え、皇帝は平章事を兼ねさせようとした。
- 李藩が強く反対し、権徳輿も、宰相は順番で昇る官ではなく、方鎮に与えるのは大忠大勲か、あるいは朝廷がやむを得ず従う場合だけで、王鍔にはどちらも当たらないと述べたため、沙汰は止んだ。
- なお王鍔は行政能力に優れ、范希朝が河北出兵で消耗させた河東軍を短期間で再建し、兵馬・器械・倉庫を充実させ、さらに家財三十万緡を献上した。だが後日あらためて平章事の話が出た際にも、李絳は「家財献上の褒賞として宰相を与えれば後世に悪例を残す」と諫め、皇帝はやめた。
年末の人事
- 裴垍はたびたび病を理由に辞位を願い、庚申、兵部尚書へ転じて宰相を退いた。
- 十二月、張茂昭が入朝し、祖先の遺骨を京兆へ移すことを願った。
- 壬午、御史中丞の呂元膺は鄂岳観察使となった。彼は以前、夜に城門を登ろうとして、門番に「たとえ中丞でも夜中は真偽が判じがたい」と拒まれ、翌日その職務忠実さを賞されて重職に抜擢されたことがあった。
- 翰林学士の李絳は吐突承璀の専横を面前で強く論じ、皇帝は一度怒ったが、李絳が涙して「言わねば陛下に背くことになる」と述べると、皇帝は態度を改め、こうした諫言こそ忠臣のものだと認めた。
- 己丑、李絳は中書舍人となり、なお学士を兼ねた。
- 李絳が財貨を蓄えることを諫めると、皇帝は、河朔諸州はなお政令が及ばず、河湟も異族に奪われたままで、祖宗の恥を雪ぐためには財力が必要だと述べ、自身の宮中生活は倹素だと弁明した。