正月 旱害救済と宰相更迭
- 簡王遘が薨じた。
- 渤海の康王大嵩璘が死に、子の元瑜が立って永徳と改元した。
- 南方で旱魃と飢饉が起きたため、鄭敬徳らを江淮・両浙・荆湖・襄鄂へ宣慰使として派遣し、賑恤を行わせた。憲宗は「宮中の布一匹にまで帳簿はつけるが、民を救う費用は惜しまぬ。その趣旨を汲め」と命じ、潘孟陽のように飲酒遊山に終わるなと戒めた。
- 給事中李藩は、制勅に不備があれば黄紙の裏に直接批語を書きつけた。別紙を継ぐよう求められても「それでは単なる上申文になってしまう」として退けた。
- 裴垍の推薦もあり、循黙で容身する鄭絪を罷めて太子賓客とし、李藩を宰相に抜擢した。李藩は知るところをすべて言う人物で、憲宗も重んじた。
三月 河東交代と成徳継承問題
- 河東節度使厳綬は九年間在任したが、軍政や任用はすべて監軍李輔光に握られ、自身は拱手していただけだった。裴垍がこれを詳しく奏上し、李鄘を後任とするよう求めた。
- 厳綬は左僕射となり、鳳翔節度使李鄘が河東節度使に移った。
- 成徳節度使王士真が死に、子の副大使王承宗がそのまま留後を称した。河北三鎮では、嫡長子を副大使にして父死後に軍務を継がせる慣例が定着していた。
閏三月 徳音と太子冊立
- 久旱のため徳音を下そうとした際、李絳・白居易は、民に実際の利益が及ぶ策として租税減免を第一に挙げ、宮人の整理、奢費節減、進奉の抑止、嶺南・黔中・福建での良民略売の禁止も求めた。
- 閏月、憲宗はこれらを受け入れ、天下の囚徒の減刑、租税蠲免、宮人放出、進奉禁止、人身売買禁止を命じた。李絳は「事の起こる前に憂えるからこそ、事後の憂いを避けられる」と賀表した。
- 王叔文一党は赦後も量移を禁じられていたが、李巽は郴州司馬程异の実務能力を見抜き、揚子留後として起用した。李巽の厳格な監督の下でも、程异は帳簿整理に長けてその才を発揮した。
- 魏徴の玄孫魏稠が貧困のため旧宅を質に入れていたところ、李師道が私財で買い戻したいと申し出た。憲宗が白居易に詔を作らせると、白居易は「これは朝廷が顕彰すべきことだ」として官費で贖還すべきだと奏し、憲宗は内庫から銭を出して家に返し、以後質売を禁じた。
- 王承宗の叔父王士則は、王承宗の擅立が一族に禍を及ぼすのを恐れ、幕客劉栖楚とともに京師へ逃れた。朝廷は王士則を神策大将軍とした。
- 李絳らは、「即位以来すでに四年になるのに皇太子がまだ立っていないのは、望まぬ野心を招く」と奏した。憲宗はこれを受け、鄧王寧を皇太子に立てた。生母は紀美人であった。
四月 進奉再燃と河北世襲問題
- 范希朝は、太原兵六百人分の衣糧を沙陀に与えたいと奏し、許可された。
- 山南東道節度使裴均は、進奉禁止の徳音の後でありながら銀器千五百余両を献上した。李絳・白居易は「陛下の心を試すつもりだ、突き返すべきだ」と諫め、憲宗はいったん度支に回させた。
- ところがその後、「今後、諸道の進奉は御史台に届けなくてよい。詮索する者がいれば名を奏せよ」とする内意が進奏院に伝えられたという風聞が立った。白居易は、これが事実なら内外を驚かせ、進奉禁止の趣旨を損なうと再び奏したが、憲宗は従わなかった。
- 憲宗は河北諸鎮の世襲を改めようとし、王士真の死を機に成徳へ朝廷から別人を送り込んで、従わなければ討とうと考えた。
- 裴垍は、先に李師道の継承を認めた以上、今ここで王承宗のみを奪えば賞罰の理を失うと諫めた。李絳ら学士も、成徳は王武俊以来四十余年の支配で人心が慣れており、急な交替命令は受け入れられないだろうと述べた。また、范陽・魏博・易定・淄青も同類意識から不安を抱き、表向き朝廷を助けても内心では王承宗に通じる危険があると論じた。加えて江淮の水害で財政が疲弊している以上、軽々しく四面作戦を起こすべきではないとした。
- 吐突承璀は裴垍の権を奪おうとして、自ら王承宗討伐の将となることを願った。宗正少卿李拭もこれに便乗して「承宗討伐は不可避で、承璀のような近臣に禁兵を預ければ諸軍も従う」と上奏した。
- 憲宗はその奏状を学士に見せ、「これは奸臣だ。自分が承璀を用いたがっていると見て迎合した。今後決して進用するな」と言ったが、なお承璀起用の考え自体は捨てなかった。
卢従史起復・吐蕃和議
- 昭義節度使盧従史は父喪中だったが、承璀に働きかけて「本軍を率いて王承宗を討ちたい」と申し出たため、朝廷は喪中のまま左金吾大将軍として起復させ、旧職のまま用いた。
- 平凉会盟で吐蕃に抑留された路泌・鄭叔矩の件以来、吐蕃との和は長らく拒まれていたが、路泌の子路随は繰り返し和議を請願した。
- 吐蕃が改めて請和すると、路随がさらに上表し、裴垍・李藩も賛成したため、憲宗はこれを許し、祠部郎中徐復を吐蕃へ派遣した。
六月 沙陀の河東移住
- 范希朝を河東節度使とした。
- 朝議では、沙陀を霊武に置くのは吐蕃に近すぎて再反の恐れがあり、また部落が多く穀価高騰も懸念されるとして、范希朝に従って河東へ移すことが決まった。
- 范希朝はその中から精騎千二百を選抜し、「沙陀軍」と号して別に指揮官を置いた。残りは定襄州に住まわせた。朱邪執宜は神武川の黄花堆に根拠地を持つようになった。
六月 吐突承璀の聖徳碑計画
- 左軍中尉吐突承璀は功徳使として安国寺を大いに修築し、さらに華山碑にならう巨大な「聖徳碑」を建てようとした。碑楼まで先に造営し、学士に撰文させるうえ、自費で謝礼一万緡を用意したいとまで言った。
- 憲宗は李絳に文を書かせようとしたが、李絳は「堯舜禹湯は自らの聖徳を碑に刻んだことはない。始皇帝のような先例に倣うのか。寺の壮麗さを誇るだけでは聖徳を増すことにならない」と反対した。
- 憲宗はこれを見て承璀の目前で碑楼を倒すよう命じた。承璀は工事が大きいから徐々に壊したいと引き延ばしを図ったが、憲宗は「牛を多く使ってすぐ曳き倒せ」と叱り、百頭の牛で引いてついに倒させた。