資治通鑑唐紀 德宗神武聖文皇帝 貞元 十八年 682年

春正月 驃国の入貢と西川の勝利

  • 驃国王摩羅思那が、その子悉利移を遣わして入貢した。驃国は南詔のさらに西南にあり、南詔が唐に帰順したと聞いてこれを慕い、南詔経由で朝見した。あわせて音楽も献上した。
  • 吐蕃は大相で東方五道節度使でもある論莽熱に十万の兵を授け、維州包囲の救援に向かわせた。
  • 西川軍は険阻な地に伏兵を置き、千人を出して挑発した。吐蕃軍が全力で追撃すると伏兵が発動し、大敗を与えて論莽熱を捕えた。維州・昆明城は結局落ちなかったため、吐蕃軍は撤退した。
  • 韋皋は論莽熱を献上し、皇帝はこれを赦した。

浙東の苛政

  • 浙東観察使裴肅は進奉によって出世した人物で、その判官斉総が後務を代行すると、民を搾り取って媚びを求めることが裴肅以上であった。
  • 三月、朝廷は斉総を衢州刺史に抜擢しようとしたが、給事中の許孟容が詔書を封じ返して反対した。衢州に緊急事態はなく、斉総にも特筆すべき功績はないのに、理由なき特進は人心を驚かせると論じたため、詔は留め置かれた。
  • 皇帝はのちに許孟容を召して慰労した。

秋七月 正牙奏事の停止

  • 嘉王府諮議の高弘本が、正牙で私的な借財の訴えを行った。
  • これをきっかけに、今後は公卿・百官が正牙で直接奏事してはならず、奏上があれば延英門で請対すべしとの詔が出た。
  • しかし世論は、正牙奏事は唐建国以来、群情を通じ政務を論ずるための制度であり、高弘本個人を罰すれば足りるのであって、制度そのものを廃すべきではないと批判した。

冬十月 淮南・鄜坊の人事

  • 淮南節度使杜佑が再三、交代を願い出ていたため、王鍔が淮南副節度使兼行軍司馬に任じられた。
  • 鄜坊節度使王栖曜が死去した。中軍将何朝宗が反乱を企て、夜に放火したが、都虞候裴玢はひそかに様子を見て火を消さなかった。夜明けに何朝宗を捕えて斬った。
  • 劉公済が鄜坊節度使、裴玢が行軍司馬となった。