資治通鑑唐紀 德宗神武聖文皇帝 貞元 十九年 683年

春二月 奉義軍・安南の事件

  • 安黄軍を奉義軍と改称した。これは伊慎に対する優遇であった。
  • 安南では牙将王季元が観察使裴泰を追放し、裴泰は朱鳶へ逃れた。だが翌日、左兵馬使趙匀が王季元とその党を斬り、裴泰を迎え戻して復職させた。

三月 杜佑入朝と李実の専横

  • 杜佑が淮南から入朝し、検校司空・同平章事となった。王鍔が淮南節度使となった。
  • 鴻臚卿王権の建議により、献祖・懿祖を徳明・興聖の廟へ遷し、禘祫では太祖の東向の位を正位とすることが決められた。
  • 李実が司農卿のまま京兆尹を兼ねた。彼は政治が酷烈で、皇帝の信任を笠に着て驕り、人の推挙や失脚を思いのままにしたので、士大夫はみな彼を恐れた。

夏四月 原州移転

  • 涇原節度使劉昌が、原州の治所を平凉へ移すよう奏請し、認められた。これは旧治が失われた後の辺防上の措置であった。

夏六月 宦官勢力の増大

  • 吐蕃が使者論頰熱を入貢させた。
  • 孫栄義が右神策中尉となり、楊志廉と並んで驕横に権勢をふるった。これにより、宦官の力はさらに強まった。
  • 薛伾が吐蕃への使者に任じられた。
  • 陳許節度使上官涚が死去した。娘婿の田偁がその子を脅して軍政を継がせようとしたが、同じく娘婿の王沛がその陰謀を監軍に告げ、討って捕えた。
  • 劉昌裔が陳許節度使に任じられた。

旱魃と東宮の周辺

  • 正月から秋七月まで雨が降らなかった。
  • 宰相斉抗が病で罷免された。
  • このころ、翰林待詔王伾と、囲碁をよくする王叔文が東宮に出入りし、太子に近づいていた。王叔文は狡知に富み、民間の苦しみを語って太子の心を引いた。
  • 太子が宮市の害を論じた際、王叔文だけは一歩退いて、太子の職分は本来、天子の起居を気遣うことであり、外政に深入りすれば皇帝に人心収攬を疑われると進言した。太子は驚いて涙し、以後、王叔文を深く信任した。
  • 王叔文は王伾と結び、将来の人事を太子に吹き込み、韋執誼・陸淳・呂温・李景儉・韓曄・韓泰・陳諫・柳宗元・劉禹錫ら、名声がありながら早い出世を望む者たちと密に結んだ。さらに凌準・程异らもその周辺から加わり、藩鎮の中には密かに資金を送って結ぶ者もあった。

九月 張正一らの左遷

  • 張正一が上書して召見されたが、王叔文派は自分たちの密事を言い立てたのではないかと疑い、韋執誼に逆に張正一や王仲舒・劉伯芻らが朋党を組んで放縦だと讒言させた。
  • そのため張正一らはみな遠方へ左遷され、世人はその理由を知らなかった。これは後の王伾・王叔文政権への布石となった。

閏十月 塩州の乱

  • 塩夏節度判官崔文先が塩州の政務を代行していたが、苛酷な政治を行ったため、部将李庭俊が反乱を起こし、崔文先を殺してその肉を裂いて食った。
  • 神策軍の李興幹が塩州守備中で、李庭俊を殺して鎮圧した。

冬十一月・十二月 塩州の独立と人事

  • 李興幹が塩州刺史となり、朝廷へ直接奏事できる特権を与えられた。これ以後、塩州は夏州の指揮を受けず、朝廷に直結する形となった。
  • 高郢と鄭珣瑜がともに宰相となった。鄭珣瑜は鄭餘慶の近親である。
  • かつては京城の諸使・府県の囚人について、季ごとに御史が巡察し冤濫を調べる制度があったが、近年は北軍が名簿を送るだけで実地監察は行われなくなっていた。監察御史崔薳が厳格に下を取り締まるため、下吏が彼を陥れようとして右神策軍に引き入れた。神策軍は驚き、事情を奏上したが、皇帝はかえって崔薳を怒って杖打ちの上、崖州へ流した。
  • 京兆尹の道王李実は、進奉の費用を満たすため徴収を強め、この年は旱魃でも苗は美しいと言って租税を免除しなかった。そのため民は家を壊し、瓦や材木や麦苗まで売って官に納めた。
  • 俳優の成輔端がこれを風刺すると、李実は朝政を誹謗したとして上奏し、杖殺させた。
  • 監察御史韓愈は、京畿の百姓が窮乏しているので、その年の未納の税や草・粟などは翌年の蚕・麦の時期まで猶予してほしいと上疏したが、陽山令に左遷された。