資治通鑑唐紀四十九 德宗神武聖文皇帝 貞元 三年 783年
八月:吐蕃の和議申し入れと柳渾の罷免
- 八月朔日、日食があった。
- 吐蕃の尚結賛は、かつて捕えていた崔漢衡を五騎に護送させて返し、あわせて和議を求める上表を送ってきた。しかし潘原に到着したところで、李観が「吐蕃の使者は受け入れない」という詔があると伝え、上表だけを受け取って使者は返した。
- 宰相の柳渾は、同じく宰相の張延賞としばしば政見が食い違っていた。延賞が周囲を通じて発言を慎むよう勧めたが、柳渾は首を斬られても言うべきことは言うと応じ、両者の仲は険悪になった。
- 徳宗は文雅で落ち着いた人物を好んだが、柳渾は質朴で率直すぎ、礼儀や言葉遣いも粗野だったため、帝の不興を買った。左散騎常侍に転じさせて宰相を罷めた。
郜国大長公主の事件と太子廃立の危機
- 郜国大長公主は行状が乱れており、李昇・蕭鼎・李萬・韋恪らがその邸宅に出入りしていた。公主の娘は太子妃であり、さらに公主自身が東宮にたびたび乗り物のまま乗り入れていたため、宗室の不満を招いていた。
- 公主が淫乱であり、さらに呪詛もしているとの告発が入ると、徳宗は激怒して公主を禁中に幽閉し、太子も厳しく責めた。太子は答えに窮し、太子妃との離縁を願い出た。
- 徳宗は李泌を呼び、舒王を立てることまで口にした。これに対し李泌は、父子の疑いは国家滅亡のもとであり、太子に謀反の形跡はないと、涙ながらに強く諫めた。
- 李泌は、建寧王の冤死や、玄宗末年の太子瑛らの事件を引き合いに出し、讒言による父子相疑の危険を説いた。また、太子は少陽院にいて外部と接触も少なく、謀反を企てる状況にないと弁護した。
- 徳宗ははじめ怒ったが、李泌の諫言を聞くうちに考えを改め、翌日には延英殿で李泌をただ一人呼び出し、太子に罪はなく仁孝であると認めた。以後、軍国の政務だけでなく家のことも李泌に相談すると言った。
- 李泌はこの一件で心労が極まったとして辞職を願ったが、徳宗は聞き入れなかった。
- 甲午、李萬は宗室との礼法をわきまえなかったとして杖殺され、李昇らと公主の五子は嶺南など遠方へ流された。
吐蕃の隴州方面侵攻
- 戊申、吐蕃は羌・渾の兵を率いて隴州に侵入し、数十里にわたって陣を連ねたため、都でも動揺が広がった。
- 九月、神策将の石季章を武功に、唐良臣を百里城に派遣して守らせた。
- 吐蕃は汧陽・呉山・華亭を大いに略奪し、老人や弱者を殺し、手を断ち目をえぐるなど残虐な振る舞いをした。壮丁一万余人を安化峡西へ連行して羌渾に分け与えようとしたが、故郷へ向かって泣いて別れよと言われると、多くが崖や谷へ身を投げ、千人余りが死傷した。
- まもなく吐蕃軍は再び来て隴州を包囲したが、刺史韓清沔と神策副将蘇太平が夜襲して退けた。
宮中財政改革
- 徳宗は、諸道からの貢献が例年より減り、宮中費が不足していると李泌に語った。
- 李泌は、天子が私的に財を求めるのは古制に反するとし、代わりに毎年宮中へ百万緡を正式に支給すること、諸道の献上や宦官による臨時徴発をやめること、必要があれば勅で租税を振り替えて供給させることを提案した。
- 徳宗はこれを受け入れた。
回紇との和親をめぐる議論
- 回紇の合骨咄祿可汗はしばしば和親を求め、婚姻も願っていたが、徳宗はこれを許していなかった。辺境の将が軍馬不足を訴えると、李泌は回紇・雲南・大食・天竺と広く連携すれば、吐蕃を孤立させ、馬も容易に得られると説いた。
- 徳宗は特に回紇だけは拒み、陝州での辱めと韋少華らの死を忘れられないと述べた。
- 李泌は、現在の可汗は陝州で帝を辱めた牟羽可汗を殺した人物であり、むしろ徳宗に功があると論じた。また、過去の屈辱は当時の臣下の失策による面が大きく、吐蕃こそ真の仇敵だと説いた。
- 李泌は何度もこの件を論じ、ついに徳宗も折れ、もし可汗が臣礼をとり、使者や馬の数、中国人や商人を無断で連れ出さぬことなど五条件を守るなら和親を許す方針となった。
- その後、回紇からの返書で、可汗は自らを「子」「臣」と称し、李泌の提示した五条件をすべて受け入れた。徳宗は大いに喜んだ。
九月:回紇への公主降嫁
- 癸亥、回紇の使者である合闕将軍を帰国させ、咸安公主を可汗に嫁がせることを許した。馬価として絹五万匹も返還した。
吐蕃の再侵攻と京西の疲弊
- 吐蕃は華亭・連雲堡を陥とし、邠州・涇州一帯の人や家畜を大量にさらって弾箏峡の西へ移した。
- 連雲堡を失ったため、涇州西門の外はほぼ吐蕃の勢力下となり、薪採りや農耕にも大軍の護衛が必要になった。収穫期を逃して空の穂ばかりとなり、涇州は慢性的な食糧不足に苦しんだ。
十月:豊義城方面の戦いと李軟奴の乱
- 十月、吐蕃は豊義城に迫ったが、邠寧節度使韓遊瓌が大回原で撃退した。翌日には長武城を攻め、旧原州にも城を築いて駐屯した。
- このころ妖僧の李軟奴が、自分は皇族で神命により天子になるべきだと唱え、殿前射生将の韓欽緒らを巻き込んで反乱を計画した。しかし仲間の密告で露見した。
- 李晟は、自身が以前から中傷を受けていたため、もし一族や家人の誰かが関わっていれば滅族だと恐れた。李泌は、宦官の取り調べでは無実の朝臣まで巻き込む大獄になりかねないと判断し、御史台に移して取り調べさせた。
- 韓欽緒は韓遊瓌の子で、邠州へ逃げたが捕えられて送られた。壬辰、李軟奴ら八人は腰斬、北軍兵士のうち連座で死んだ者は八百余人に及んだが、朝廷の高官にはほとんど波及しなかった。
- 韓遊瓌は罪を謝しに入朝したが、徳宗は慰留し、以前どおり任用した。欽緒の二子も助命した。
冬:防秋兵の撤収
- 吐蕃は寒さと兵糧不足のため、それ以上の大規模侵攻を行わなかった。
- 十一月、渾瑊を河中へ、李元諒を華州へ帰し、劉昌の兵も汴州へ戻した。その他の防秋兵も鳳翔や京兆の諸県へ退いて食を調達した。
- 十二月、韓遊瓌が入朝した。
豊作と趙光奇の直言
- この年は興元以来もっとも豊作で、米価も粟価も安かったため、各地に和糴が命じられた。
- 庚辰、徳宗が新店で狩りをした際、民家の趙光奇に立ち寄り、百姓は楽しんでいるかと尋ねた。
- 趙光奇は、詔では両税以外の賦役はないと言いながら実際には徴発が多く、和糴と称しながら強制的に取り立て、代価も支払わず、しかも近場納入と言っておきながら遠く京西行営まで運ばせるので、破産する者が出ていると率直に訴えた。
- 徳宗はその家の徭役を免除した。