資治通鑑唐紀四十八 德宗神武聖文皇帝 貞元 三年 787年

春正月・張延賞の入相

  • 壬寅、左僕射張延賞が同平章事となった。
  • 李晟はその子と張延賞の家との婚姻を求めたが、張延賞は応じなかった。
  • 李晟は、武人は酒の席で怨みを解けば胸に残さないが、文士は外面だけ和しても内に怨みを蓄え続ける、と周囲に漏らし、不安を隠さなかった。

淮西降兵の叛帰と李泌の対処

  • 李希烈のもとで精兵だった門槍・奉国・克平の諸軍は、淮西では馬が少ないため騾に乗ることが多く、「騾軍」とも呼ばれた。
  • 陳仙奇が降った後、その精兵五千は京西防秋に向かっていたが、仙奇が呉少誠に殺されると、呉少誠は密かに旧部に帰還を促した。
  • 都知兵馬使蘇浦は事情を知らず、配下の呉法超らが鄜州から歩騎四千を率いて叛帰した。渾瑊の将白娑勒が追ったが敗れた。
  • 皇帝は李泌に阻止を命じ、李泌は正面からの迎撃よりも兵站遮断と伏兵・民兵を組み合わせた策を用いた。
  • 太原倉付近の隘路で二手の伏兵が挟撃し、さらに澗北でも追撃して、賊は大敗した。騾軍兵馬使張崇献が捕らえられた。
  • 呉法超は長水へ逃れようとしたが、燕子楚の待ち伏せに遭い斬られた。潰走兵は村民にも殺され、蔡州へ戻れたのは四十七人にすぎなかった。
  • 呉少誠は、逃げ帰った者たちも少数で役に立たないとして皆殺しにし、かえって叛卒を処罰してくれた李泌へ謝礼を送った。
  • 張崇献ら六十余人は京師へ送られ、詔によって鄜州軍門で腰斬に処された。

雲南・南詔の動き

  • 雲南王閤羅鳳がかつて嶲州を陥れた際、西瀘令の鄭回を捕えた。鄭回は学識をもって南詔王家に重んじられ、子孫の教育まで担った。
  • 異牟尋の代になると、鄭回は清平官、すなわち宰相格の地位にあり、他の清平官たちも彼に服していた。
  • 吐蕃は南詔を前鋒として酷使し、重税を課し、要地には城堡を築き、毎年兵を出させたため、南詔の負担は重かった。
  • 鄭回は異牟尋に、唐は礼義と恩沢があり、過酷な賦役はないとして、吐蕃を離れて唐に帰すよう長年説いていた。
  • 西川節度使韋皋が辺境諸蛮を招撫すると、異牟尋は密かに内附の意を伝えてきた。韋皋は、これを機に雲南や八国生羌を取り込んで吐蕃の勢力を分断すべきだと奏上した。

宰相更迭

  • 張延賞は斉映と不和であり、斉映は宰相中で比較的発言力があったが、皇帝は次第にこれを嫌うようになった。
  • 壬子、斉映は夔州刺史に左遷され、劉滋も宰相を罷めて左散騎常侍となった。
  • 代わって兵部侍郎柳渾が同平章事となった。
  • 韓滉は苛酷で、皇帝の信任を得て発言力が強く、他の宰相は飾りに近かった。官吏たちはその処罰を恐れていた。
  • 柳渾は、韓滉の父韓休も細かく見すぎる性格で短期間で罷免されたのに、今の韓滉はそれ以上だとして、省中で官吏を杖打ちし死者まで出したことを面前で諫めた。韓滉は恥じて威圧をやや和らげた。

二月・韓滉の死

  • 壬戌、崔澣が吐蕃への使者に任じられた。
  • 戊寅、鎮海節度使であり同平章事・江淮転運使でもあった韓滉が死去した。
  • 韓滉は二浙在任が長く、人材登用には鋭さがあった。才能の乏しい人物でも、適所に置いて威を発揮させた逸話が伝わる。
  • その死後、浙江東西は三道に分けられ、浙西・浙東・宣歙池それぞれに観察使が置かれた。
  • 皇帝は果州刺史白志貞を浙西観察使にしようとしたが、柳渾は白志貞は邪佞で再用すべきでないと反対した。
  • しかし柳渾が病で出仕しない間に任命が下され、病の軽くなった柳渾は、諫言が容れられなかったことから辞職を願ったが、許されなかった。

三月・吐蕃との和議論

  • 丁酉、李銛が吐蕃への使者となった。
  • 吐蕃は塩州・夏州を得て鳴沙に退いていたが、冬から春にかけて羊馬が多く死に、補給も続かず、しかも李晟・馬燧・渾瑊らがそれぞれ圧迫していたため、尚結賛は恐れた。
  • そこで吐蕃はたびたび使者を送って和を求め、清水での盟約を再び結び、侵地を返還すると約した。
  • 馬燧はこれを信じ、石州にとどまって河を渡らず、朝廷にも和議を進めた。李晟と韓遊瓌は、吐蕃は弱れば和を乞い、強ければ侵すのだから、これは偽りだと強く反対した。
  • 韓滉も生前、今なら河湟回復の好機であり、その兵糧は自分が賄えると主張していた。
  • だが韓滉が死に、馬燧・張延賞はいずれも李晟と不和で、和議を支持した。皇帝も回紇を恨み、吐蕃と和して回紇を撃ちたい思いがあって、計は和議へと傾いた。
  • 張延賞は、李晟を長く兵権の座に置くべきでないと繰り返し述べ、皇帝もついに李晟に代将を選ばせることにした。
  • 李晟は都虞候邢君牙を推挙し、丙午、鳳翔尹兼団練使に任じられた。丁未には李晟を太尉・中書令としたが、その他の職権は外し、実質的に兵権を解いた。
  • 李晟はもともと魏徴のように直諫したいと語っており、側近に「将相を兼ねながら朝廷の得失を言わなければ臣ではない」と述べていた。その後も朝廷にあっては率直に発言した。

三月末から四月・馬燧入朝と吐蕃撤退

  • 辛亥、馬燧が入朝すると、唐軍諸営は閉壁して戦わず、尚結賛は鳴沙から退いた。
  • 吐蕃軍は馬が不足して徒歩の者も多く、苦しい撤退だった。
  • 崔澣が尚結賛に約束違反を責めると、尚結賛は「朱泚討伐の功に対する賞を受けられず来たにすぎない。塩州・夏州も守将が捨てて去ったのだ」と弁明し、旧好を修めたいと述べた。
  • さらに、以前の清水盟は参加者が少なかったので軽く扱われた、今回は二十一人の将相が来ている、渾侍中と旧知の杜希全・李観らに主盟させたいと求めた。これは後の罠の布石だった。

四月から五月・盟約準備

  • 四月丙寅、崔澣が長安に戻り、辛未、鴻臚卿として再び吐蕃へ赴き、杜希全は霊州守備で動けず、李観も転任したので、渾瑊が清水で盟する、と伝えた。
  • 五月甲申、渾瑊は咸陽から入朝し、会盟使となった。戊子、崔漢衡を副使、鄭叔矩を判官、宦官の宋奉朝を都監とした。
  • 己丑、渾瑊は二万余を率いて盟所へ向かった。
  • 乙巳、尚結賛は、清水は吉地でないから原州の土梨樹で盟いたい、盟が済めば塩州・夏州は返すと伝え、朝廷はこれを許した。
  • 神策将の馬有麟は、土梨樹は険阻が多く伏兵に向くから平凉川の平坦地にすべきだと進言し、朝廷は使者を追って変更を告げた。
  • 一方、申蔡留後の呉少誠は城を修め兵を整えて朝命に逆らう気配を見せ、配下の鄭常・楊冀らが追放を企てたが露見して殺された。
  • 閏月己未、韋皋は東蛮和義王苴那時書とも結び、雲南との連絡路を探らせた。

閏月・官員削減と武臣の不満

  • 庚申、州県官の大幅削減が行われ、浮いた俸禄を戦士に回すことになった。張延賞の策である。
  • 新任官だけで千五百人いたのに、削減対象は千人以上に及び、怨嗟が路上に満ちた。
  • 韓滉は生前、劉玄佐に河湟回復を担わせるよう薦め、劉玄佐自身も当初は賛成していたが、韓滉の死後には吐蕃はなお強く争えないと消極論に転じた。
  • 皇帝が中使を派遣してねぎらうと、劉玄佐は寝たままで命を受けた。張延賞はこれで劉玄佐を頼みにできないと見て、李抱真に河湟の件を任せようとしたが、抱真も固辞した。
  • これは、張延賞が李晟の兵権を解いたため、武人たちが憤り、心を離していたからだとされる。

襄鄧の強化と李晟の警告

  • 癸亥、襄鄧を淮西牽制の要地として重視し、荊南節度使曹王皋を山南東道節度使に移し、襄・鄧・復・郢・安・随・唐の七州を隷属させた。
  • 渾瑊が長安を出る際、李晟は「盟の場には厳重な備えが不可欠だ」と深く戒めた。
  • しかし張延賞は、李晟が和議を成らせたくないから疑心をあおっているのだと皇帝に言い、皇帝は逆に渾瑊へ、誠意をもって吐蕃に当たり、猜疑を見せてはならないと命じた。
  • 渾瑊は盟の日が辛未に定まったと奏し、張延賞は百官にその奏を示して「李太尉は和好は成らぬと言ったが、日取りはすでに決まった」と李晟を当てこすった。
  • 李晟はこれを聞き、長く西辺にあって虜情を熟知しているからこそ、ただ朝廷が吐蕃に侮られるのを恥じて諫めたのだと、親しい者に涙ながらに語った。

盟約前夜の布陣

  • 皇帝は駱元光を潘原、韓遊瓌を洛口に置いて渾瑊の援軍とした。
  • 駱元光は、潘原では盟所から遠すぎるので渾瑊と同行したいと願ったが、詔命を理由に断られた。それでも従わず、渾瑊の陣の三十余里近くまで進んだ。
  • 駱元光は壕や柵を深く固めたが、渾瑊の営は容易に越えられる程度の備えしかなかった。
  • 駱元光は西方に伏兵を置き、韓遊瓌もその側面に五百騎を潜ませ、変事があれば柏泉へ走って敵を分散させよと命じた。

辛未・平凉劫盟

  • 尚結賛と渾瑊は、それぞれ甲士三千を壇の東西に列し、常服の従者四百を壇下へ伴う約束をしていた。
  • 盟の日、尚結賛はさらに双方の遊騎に互いを偵察させたいと求め、渾瑊はこれも認めた。
  • 吐蕃は壇の西に精騎数万を伏せ、遊騎を唐軍中に縦横に出入りさせた。唐側の騎兵が敵陣に入ると捕らえられたが、渾瑊らは異変に気づかなかった。
  • 渾瑊らが幕内で礼服に着替えていると、吐蕃は太鼓を三たび鳴らして一斉に襲いかかり、宋奉朝らを幕中で殺した。
  • 渾瑊は辛うじて別の馬に乗り、たてがみに伏して逃げ、矢を背に受けずに済んだ。唐軍は東へ潰走し、死者数百、捕虜千余に上った。崔漢衡も捕らえられた。
  • 渾瑊が自営に戻ると、将卒は逃げ去っていたが、駱元光が伏兵を出して陣を整えていたため、追ってきた吐蕃騎兵は驚いて止まった。そこへ韓遊瓌の伏兵も西へ走って敵を牽制し、吐蕃は退いた。
  • 駱元光は自軍の輜重を渾瑊に分け与え、散兵を収容して隊列を整えながら帰還した。
  • その日、皇帝は朝会で「今日は和戎による息兵の日で、社稷の福だ」と語った。馬燧は同意したが、柳渾と李晟は不安を述べた。皇帝は不快の色を示し、両者は謝罪して朝会は終わった。
  • だがその夜、韓遊瓌からの急報で劫盟が判明し、皇帝は大いに驚いた。翌朝、柳渾の見通しが正しかったことを認めた。
  • 皇帝は吐蕃を避けて再び避難することも考えたが、大臣たちの諫止で思いとどまった。
  • 李晟には、大安園の竹林に伏兵を置いて変を起こそうとしているという流言まで飛び、李晟は疑いを避けるため竹を伐った。

劫盟後の波紋

  • 癸酉、皇帝は中使王子恒に詔を持たせて尚結賛へ送ったが、吐蕃は受け取らず返した。
  • 渾瑊は奉天に駐屯した。
  • 甲戌、尚結賛は旧原州に着くと、捕虜の崔漢衡らに対し、「渾瑊を金の枷で縛って賛普に献じるつもりだったが逃げられた」と語った。
  • また馬燧の甥馬弇には、春草の生えぬ時期に河曲で馬が弱っていた際、もし馬燧が渡河していれば吐蕃軍は全滅していた、和を求めたのは馬燧のおかげで帰還できたからだ、と言って帰した。
  • 捕虜の崔漢衡らは河州・廓州・鄯州へ分置された。
  • 皇帝はこの言葉を聞いて馬燧を憎むようになったが、張延賞の責任までは深く追わなかった。
  • 六月丙戌、馬燧は司徒兼侍中とされたが、副元帥・節度使の職は外された。
  • 胡三省は、尚結賛の策は、まず李晟を離間し、次に馬燧に和議を唱えさせ、ついで渾瑊を捕えて馬燧にも罪を負わせ、最後に長安へ迫ることにあったと整理している。失敗したのは渾瑊を取り逃したからにすぎない。

李泌の入相

  • 張延賞は恥じ恐れて病と称し、政務を見なくなった。
  • そこで陜虢観察使の李泌が中書侍郎同平章事となった。
  • 河東都虞候の李自良が馬燧に従って入朝しており、皇帝は河東節度使に任じようとしたが、李自良は長年仕えた馬燧の地位を自分が奪うのは礼に背くと固辞した。
  • 皇帝は北門警衛には彼が不可欠だとして、結局李自良を河東節度使とした。

吐蕃の塩夏放棄と雲南招撫

  • 塩州・夏州に駐屯していた吐蕃兵は補給が続かず、疫病も広がって帰還を望んだ。尚結賛は三千騎を迎えに出し、宿営や城を焼き、住民を連れ去って撤退した。
  • 霊塩節度使杜希全が兵を分けてその地を守った。
  • 韋皋は、雲南が比較的漢字に通じることを踏まえ、壬辰、自ら書を送って帰附を勧め、早く使者を入朝させるよう促した。

李泌と皇帝の約束

  • 壬寅、李泌は李晟・馬燧・柳渾とともに入見した。
  • 皇帝は、霊武のころから李泌は宰相にふさわしかったが自ら退いたのだと語り、「恩人にも仇敵にも報復するな」とまず求めた。
  • 李泌は、自分は道家を奉じており私怨は持たない、李輔国や元載のような害敵はすでに自滅したし、恩人たちも多くはすでに出世したか世を去った、と答えた。
  • そのうえで逆に、「どうか功臣を害さないでほしい」と皇帝に約束を求めた。李晟・馬燧は国家の大功臣であり、彼らを疑って害すれば宿衛や藩鎮は動揺し、中外の変が再び起こると強く諫めた。
  • 皇帝はこれを社稷の大計と認め、肝に銘じると答え、李晟・馬燧も涙ながらに謝した。
  • 皇帝が軍旅・糧儲は李泌、吏礼は張延賞、刑法は渾瑊と職掌を分けようとすると、李泌は、宰相の職は天下の事を共に平章するもので、有司のような分業ではないと論じ、皇帝もこれを認めた。

州県官復旧と冗官整理

  • 李泌は、先に削減した州県官を復活させるよう求めた。
  • 皇帝は、戸口が承平時の三分の一減なのに官がむしろ増えているではないかと疑問を示した。
  • 李泌は、戸口は減っても事務は十倍に増えており、しかも削ったのは実務官で、減らすべき冗官は残されたままだと指摘した。
  • さらに、至徳以来の額外官が正官の三分の一にもなっているので、在職日数に応じて資序を認め、正員官へ順次振り替える形にすれば、不満なく整理できると提案した。
  • また、まだ府を出ていない諸王には新たに府官を置かないよう求め、皇帝はこれらを採用した。
  • 乙卯、先に減らした官はすべて旧に復した。

李昇と東宮をめぐる中傷

  • 張延賞は西川時代に東川節度使李叔明と不和で、その子李昇にも含むところがあった。
  • 奉天から山南へ逃れた際、険路で衛士が多く逃散するなか、李昇・郭曙・令狐建ら六人は血盟して皇帝の身辺を固め、梁州まで供奉した。そのため帰京後、禁衛将軍として厚遇されていた。
  • 張延賞は、李昇が郜国大長公主の邸に出入りしていると密告した。郜国公主は太子の妃蕭氏の母でもあった。
  • 皇帝が李泌に怪しむと、李泌は、これは東宮を動揺させたい者の策で、張延賞の讒言に違いないと即座に見抜いた。
  • 李泌は、李昇を別官に移して宿衛から外し、疑いの芽を摘むよう求めた。秋七月、李昇は詹事に転じた。

夏州方面の整備

  • 甲子、振武軍から綏州・銀州二州を割き、右羽林将軍韓潭を夏綏銀節度使として、神策五千・朔方河東三千を率いて夏州に鎮させた。

財政再建策

  • 関東の防秋兵が大量に集まり、国家財政は逼迫した。
  • 李泌は、両税法以後、藩鎮や州県が法を無視して私的に徴収し、朱泚の乱では専売・賦課・徴罰で軍資を作ってきた実情を指摘した。
  • そこで、違法徴収を一括して赦し、今後改めさせたうえで、本来朝廷に送るべき分はすべて京師へ納めさせるべきだと進言した。
  • 官吏・役人の未納については、取り立て可能なものは徴収し、難しいものは免じて寛大さを示し、そのかわり隠匿発覚には重賞付きの告発制度で対処すべきだとした。
  • 皇帝は、寛大すぎて実入りが少ないのではと疑ったが、李泌は、厳罰にすると隠匿が進んで得るものが遅れ、しかも奸吏の餌食になると説き、皇帝は賛同した。
  • 元友直が河南・江淮南で両税銭帛を検査する使者に任じられた。

長安の胡客整理

  • 河隴が吐蕃に失われて以来、安西・北庭や西域諸国の使者で長安に残留する者が帰路を絶たれ、鴻臚寺や府県の供給で生活していた。
  • 度支からの支払いは遅れがちで、市場にも負担が大きかった。
  • 李泌が調べると、長安滞在四十年を超える胡人も多く、妻子・田宅・金融まで持っており、もはや帰国する気が薄れていた。
  • そこで、資産を持つ胡客への供給を停止し、帰国を望まぬ者には官職と俸禄を与えて唐臣とする方針を示した。
  • 実際には誰一人帰国を望まず、多くが神策両軍や王子の配下に編入され、兵力増強につながった。これにより鴻臚寺の扶持対象はごく少数となり、年間五十万緡が節約された。

屯田と府兵再建の漸進策

  • 皇帝が再び府兵復活策を問うと、李泌は、今の段階では直ちに旧制へ戻すのでなく、まず関中・京西の戍卒十七万人の糧食問題を解決すべきだと述べた。
  • 吐蕃が原州・会州の間に長く留まり、牛で糧を運んでいることに目を付け、左蔵の古く質の悪い絹を彩り染めして党項との交易に回し、牛を大量購入することを提案した。
  • さらに農具を鋳造し、麦種を辺地の軍鎮へ配って、戍卒に荒田を開かせ、来年の収穫時に種の倍返しと残余の官買い上げを約すれば、耕作が広がって食糧も安くなるとした。
  • 辺地は住民が少なく、軍士は官粮を受けるため市場に穀物が余りがちで、政府が少し上乗せして買っても全体では今より安くつく、という計算だった。
  • 皇帝はただちに実施を命じた。
  • 李泌はさらに、辺地の欠員官を、粟を納める者に授ければ当年の糧も賄えるとした。
  • そして、屯田で富んだ戍卒が定着するようになれば、三年交代の満期ごとに希望者を永住させ、その家族の移住にも便宜を図れば、やがて土着兵となるので、そこから府兵法へ移行できると説いた。
  • 皇帝は「これで天下は無事になる」と喜んだが、李泌は、さらに中国兵を使わず吐蕃を自ら苦しませる策もあるが、まず屯田の成果を見てからだとして詳細は語らなかった。

夏から秋・恩賞と訃報

  • 壬申、駱元光には皇姓が賜われ、李元諒と名を改めた。
  • 左僕射同平章事の張延賞が死去した。