資治通鑑唐紀四十九 德宗神武聖文皇帝 貞元 四年 784年

正月:大赦と財政・官制の整備

  • 正月庚戌朔、大赦が行われた。あわせて両税の等級は今後三年ごとに定め直すこととされた。
  • 李泌は京官の俸禄が薄いとして、三師以下の俸給を増額するよう奏請し、認められた。
  • 壬申、劉昌を涇原節度使に、甲戌、李元諒を隴右節度使に任じた。両者とも将士を率いて屯田を進め、数年で兵糧を充実させたため、涇・隴方面はしだいに安定した。

韓遊瓌の帰還と范希朝の逃亡

  • 韓遊瓌が入朝した際、軍中では帰還できないだろうと見て送別も薄かったが、彼は豊義城築城の利を力説して帝の歓心を得て、再び鎮所へ戻された。
  • そのため軍中で不安が広がった。韓遊瓌は都虞候の范希朝が功名と人望を持つのを恐れ、罪を探して殺そうとした。
  • 范希朝は鳳翔へ逃れ、徳宗はこれを左神策軍に置いた。韓遊瓌は豊義城を築き始めたが、二版ほど積んだだけで崩れた。

二月:宮中の私蔵再燃

  • 元友直が淮南の銭帛二十万を長安に運び入れた。李泌はすべて大盈庫に納めたが、徳宗はなおしばしば臨時徴発を行い、しかも諸道に宰相へ知らせるなと命じた。
  • 李泌はそのことを知って失望したが、正面からは諫めなかった。

白起の祠をめぐる議論

  • 咸陽の者が、白起の神霊を見て「吐蕃を防ぎ、正月には大いに破ってみせる」と告げられたと上奏した。
  • その後、吐蕃が侵攻しても深入りできなかったため、徳宗はこれを霊験と考え、京師に白起の廟を建て、司徒を贈ろうとした。
  • 李泌は、辺将が功を立てたのに白起ばかりを賞するのは将士の気持ちをくじき、しかも都で大々的に祈祷すれば巫覡の風を助長すると諫めた。
  • 結局、杜郵の旧祠を修繕するにとどめ、贈官も兵部尚書に下げた。

李泌と徳宗の宰相論

  • 李泌は老いと疲労を理由に、もう一人宰相を任じてほしいと願った。
  • 徳宗は歴代の宰相について語り、とくに盧杞は忠清で強い人物だと評価したが、李泌は、帝だけがその奸邪に気づかなかったこと自体が、盧杞の奸邪の証拠だと論じた。
  • 李泌は、楊炎殺害・顔真卿失脚・李懐光の反乱誘発など、建中年間の乱の責任を盧杞に帰した。
  • 徳宗は、楊炎は自分を軽んじ、崔祐甫は短気、盧杞は従順だったので用いたのだと述べたが、李泌は「君主に逆らう者がいないこと」は国を亡ぼすと戒めた。
  • 最後に徳宗は、李泌だけは逆耳のことを言っても顔色が和らぎ、理を尽くしながら争勝しないため、心から従う気になると評した。

四月:禁軍再編と福建の乱

  • 四月乙未、殿前左右射生軍を神威軍と改称し、羽林・龍武・神武・神策とあわせて十軍とした。神策軍はとくに勢力が強く、京西や畿内に広く駐屯していた。
  • 福建観察使の呉詵は兵を弱いと侮って酷使したため、軍士が反乱し、彼の腹心十数人を殺し、郝誡溢を留務とするよう強要した。
  • 徳宗は中使を派遣して赦免を伝え、ひとまず鎮静化した。

隴右・雲南方面

  • 同月、李元諒は良原故城を修復し、そこに鎮した。
  • 雲南王の異牟尋は内々に唐へ帰服したいと考えていたが、まだ自ら使者を送ることはできなかった。そこでまず東蛮の鬼主、驃旁・苴夢衝・苴烏星を先遣した。
  • 五月乙卯、徳宗は麟徳殿で彼らを宴し、厚く賜与し、それぞれ王に封じて印を与えて返した。

五月:福建の人事と吐蕃の夏季侵攻

  • 辛未、呉湊を福建観察使に任じ、呉詵は涪州刺史に左遷した。
  • 吐蕃三万余騎が涇・邠・寧・慶・鄜などの州に侵攻した。例年は秋冬の出兵だったが、このときは捕えた唐人を人質にしてその家族を押さえ、唐側の事情を知ったうえで、夏に攻めてきた。
  • 諸州は籠城して戦わず、吐蕃は人畜を大量に奪って退いた。

陽城の徴召

  • 夏県の人、陽城は学問と徳行で知られ、柳谷北に隠棲していた。李泌が推薦し、六月に諫議大夫として徴された。

七月:邠寧軍の動揺

  • 韓遊瓌は病を理由に交代を求めていたため、七月に渾瑊を邠寧副元帥とし、張獻甫を邠寧節度使、韓全義を長武城行営節度使に任じた。
  • 張獻甫の着任前、韓遊瓌は将兵に告げずに夜、軽騎で帰朝した。守兵の裴満らは張獻甫の厳格さを恐れ、主帥不在に乗じて反乱した。
  • 彼らは、張獻甫が本軍出身でない以上、受け入れないと称して市街を略奪し、監軍の楊明義を包囲して、范希朝を節度使にするよう奏請させた。
  • 都虞候の楊朝晟は、表向きこれに賛成して安心させておき、翌朝兵を整えて、首謀者だけを挙げれば全員は殺さないと説いた。すると二百余人を斬って反乱は収まった。
  • 徳宗は当初范希朝を節度使にしようとしたが、范希朝自身が、韓遊瓌の禍を避けて逃げてきた自分が後任になるのは良くないとして辞退したため、寧州刺史として張獻甫の副とした。
  • 韓遊瓌は右龍武統軍・振武節度使に転じた。

七月:北辺の奚室韋侵入

  • 己未、唐側の警戒が厳重でなかったため、奚室韋が振武に侵入し、宣慰の中使二人を捕え、人畜を大いに奪って去った。
  • ちょうど回紇の兵が公主を迎えるため振武にいたので、唐は七百騎、回紇も数百騎を出して追わせたが、回紇使者は奚室韋に殺された。

九月:吐蕃撃退と税外徴収の停止

  • 庚申、吐蕃の尚志董星が寧州に侵入したが、張獻甫が撃退した。吐蕃はそのまま鄜坊方面を掠めて退いた。
  • 元友直が諸道の税外物資を検査して戸部へ送り込む制度が定着し、毎年百余万緡・斛もの追加徴収となって民を苦しめた。
  • 諸道が相次いで上訴したため、徳宗は考え直し、今年すでに官に入った分だけは京師へ送るが、未納分は民に返し、来年以後はすべて免除するとした。これにより東南の民はようやく生業を立て直した。

回鶻の使節来朝

  • 回紇の合骨咄祿可汗は、唐が婚姻を許したことを喜び、妹の骨咄祿毗伽公主、大臣の妻、国相の&KR0932;跌都督ら千余人を迎えの使節として送った。
  • 彼らは礼をきわめて恭しくし、「かつては兄弟の国であったが、今は子婿として父に尽くす。吐蕃が患いをなすなら自分たちが父のために除く」と言い、吐蕃の使者を面前で罵って関係を断った。

十月:回紇を回鶻と改称・雲南離反の進展

  • 十月戊子、回紇の使節が長安に到着した。可汗は国号の字を「回鶻」と改めることを請い、これを許した。
  • 吐蕃は西川侵攻のため十万を動員し、さらに雲南兵も求めた。雲南は内心では唐に傾いていたが、表面上はまだ吐蕃に従っていたため、数万を瀘水北へ出した。
  • 韋皋は、雲南王に吐蕃との離反と唐への帰順を勧める書を銀函に納め、東蛮を介して届けた。これを見た吐蕃は雲南を疑い、会川に二万を置いて蜀への道を塞いだ。
  • 異牟尋は怒って兵を引き上げ、これ以後、雲南と吐蕃の相互不信は決定的となり、唐に帰る意思はいっそう強まった。
  • 吐蕃は結局侵攻を中止せず、諸道に分兵して攻めたが、韋皋は黎州刺史韋晉らに東蛮と連携させ、清溪関外でこれを破った。

冬:回鶻冊立と李泌の運漕策

  • 庚子、咸安公主を冊立して回鶻可汗に嫁がせ、可汗には長寿天親可汗の号を加えた。
  • 十一月、刑部尚書関播を、咸安公主の送嫁と回鶻可汗冊立を兼ねる使者とした。
  • 吐蕃は清溪関方面で雪辱を期して再び攻めたが、韋皋配下の韋晉・劉朝彩らが連戦して大破した。
  • 李泌は、江淮漕運の要地である甬橋が徐州管下にあり、李納に近いことを憂え、幼い高明応に代えて張建封を徐州に移し、濠州・泗州を隷属させるよう進言した。
  • 徳宗はこれを認め、張建封を徐泗濠節度使に任じた。張建封は寛厚だが法を曲げず、部下は皆その威に服した。

年末:横海節度使の死

  • 横海節度使程日華が死に、子の程懐直が留後として自立を図った。
  • 吐蕃はなお雲南へしきりに使者を送り、懐柔や脅迫を続けた。