資治通鑑唐紀 代宗睿文孝武皇帝 大暦六年 六年 771年

春 李抱玉の上奏と嶺南平定

  • 二月壬寅、李抱玉は、河西・隴右・山南西道を兼ねて率いるのは範囲が広すぎ、吐蕃が岷州・隴州方面から同時に来れば対処しきれないと上言した。隴坻方面防衛に専念したいとして山南西道を別人に委ねるよう願い、許された。
  • 郭子儀は邠州へ帰った。
  • 嶺南では、梁崇牽が「平南十道大都統」を称して容州に拠り、西原蛮の張侯夏永らとともに諸州を攻略した。前任の容管経略使元結らは蒼梧に寄治していた。
  • 新任の経略使王翃は藤州に着くと私財で兵を募り、ほどなく賊将欧陽珪を斬って広州へ赴き、節度使李勉に援兵を求めた。李勉が難色を示すと、王翃はまず諸州への文書で援兵千を出すと喧伝するだけでもよいと説き、声勢を利用した。
  • 王翃は義州刺史陳仁璀、藤州刺史李暁庭らと盟を結び、三千余で数万の賊軍を破り、容州を奪回して梁崇牽を捕えた。さらに西原蛮を各地で討ち、鬱林など旧地を回復した。番禺の馮崇道、桂州の朱済時らの乱も李勉配下の李観とともに平定し、三月には五嶺がようやく安定した。

夏 楊子琳改名、吐蕃と和議、元載弾劾者の処刑

  • 河北では旱魃で、米は一斗千銭となった。
  • 四月己未、澧州刺史楊子琳が入朝し、皇帝は厚遇して名を楊猷と改めさせた。
  • 庚申、董秀が内常侍となった。
  • 庚辰、吐蕃が和を請うたため、呉損が使者として派遣された。
  • 成都司録李少良が元載の姦悪と収賄を上書したが、その内容を友人韋頌に語り、さらに殿中侍御史陸珽が元載に通報したため、三人とも御史台獄に下された。御史は彼らを「比周して君臣を離間した」と断じ、五月戊申、勅により京兆で杖殺された。

秋 元載の権限維持と李栖筠起用

  • 七月丙午、元載は、別勅で任命される文武六品以下の官について、吏部・兵部が審査しないよう求め、認められた。自身の違法な人事を有司に弾かれないためである。
  • 八月丁卯、李忠臣が兵二千を率いて奉天に防秋として駐屯した。
  • 皇帝は元載に飽き始め、阿附しない士大夫を側近に置こうと考えた。丙子、宰相に知らせぬまま浙西観察使李栖筠を御史大夫に任じたため、元載の権勢はやや削がれた。
  • 九月、吐蕃が青石嶺から那城へ出てきたが、郭子儀が使者を送って諭すと翌日に退いた。

韓滉の財政再建

  • この年、韓滉が戸部侍郎判度支となった。兵乱以来、各地の賦税は無秩序で、倉庫の出納も法がなく、国家財政は著しく空耗していた。
  • 韓滉は廉直で実務に明るく、賦税徴収と出納の法を整備し、属吏にも厳格に臨んだ。ちょうど豊年と辺境の平穏にも恵まれ、ここから倉庫の蓄積が回復し始めた。