資治通鑑唐紀 代宗睿文孝武皇帝 大暦七年 七年 772年
春 回紇使者の乱暴と郭子儀入朝
- 正月甲辰、回紇使者が鴻臚寺から勝手に抜け出し、人の子女を掠めた。官がこれを禁じると、使者は逆に役人を殴打し、三百騎で金光門・朱雀門に迫った。宮門は閉ざされ、皇帝は中使劉清潭を派遣してなだめ、ようやく事態は収まった。
- 三月、郭子儀が入朝し、丙午に邠州へ帰った。
- 四月、吐蕃五千騎が霊州へ来たが、まもなく退いた。
- 五月乙未、天下に赦があった。
夏秋 再度の回紇横暴と朱希彩の死
- 七月癸巳、回紇使者はまたも鴻臚寺を抜け出し、長安令邵説を含光門街まで追い回して馬を奪った。邵説は別の馬に乗って逃げ、争わなかった。
- 盧龍節度使朱希彩は朝廷に対して無礼で、将卒にも残虐だったため、孔目官李懐瑗が衆怒を背景に機を見て殺害した。
- 幽州の衆は後継に迷ったが、城北にいた経略副使朱泚の弟朱滔が密かに兵を使って「節度使は朱副使でなければならぬ」と煽ると、衆はこれに従い、朱泚が留後を掌握した。
- 冬十月辛未、朝廷は朱泚を検校左常侍・幽州盧龍節度使に任じた。
年末 永平軍設置
- 十二月辛未、滑州に永平軍が置かれた。