資治通鑑唐紀 代宗睿文孝武皇帝 大暦五年 五年 770年

春正月 魚朝恩専横

  • 正月己巳、羌の白対蓬らが部落を率いて内属した。
  • 魚朝恩は観軍容宣慰処置使・神策軍使として禁兵を専断し、皇帝の寵任をほしいままにして、軍国の大事にも関与した。広座で時政を論じ、宰相を侮ることすらあった。元載ほどの弁舌家も、彼の前では沈黙せざるを得なかった。
  • 配下の劉希暹・王駕鶴らも権勢をふるい、北軍に獄を設け、坊市の悪少年を使って富家を誣告させ、拷問で服罪させて家産を没収し、それを軍や告発者へ分配した。秘密の獄であったため、誰も公然とは非難できなかった。
  • 魚朝恩は「天下のことに自分を経ないものがあってよいか」と言い放ち、皇帝はこれを聞いて不快に思うようになった。
  • 養子令徽の紫衣下賜をめぐる横暴もあり、皇帝の不満は募った。元載はその機を見て、魚朝恩が専恣で不軌であると奏し、誅殺を請うた。

元載による魚朝恩討滅工作

  • 魚朝恩は入殿のたび周皓に百人を率いさせて護衛し、外では陝州節度使皇甫温を援軍とした。だが元載は賄賂で彼らを懐柔し、魚朝恩の密謀を逐一把握した。
  • 辛卯、李抱玉を山南西道へ移し、皇甫温を鳳翔へ出すように見せかけて実際には京中へ留め、自分の補助勢力とした。また、郿・虢・宝鶏・鄠・盩厔を李抱玉に、興平・武功・天興・扶風を神策軍に属させた。魚朝恩は地の増加を喜び、逆に警戒を緩めた。
  • 張延賞が東京留守となり、河南方面の副元帥は廃止された。
  • 二月、李抱玉が盩厔へ移る際、軍士は不満で鳳翔の坊市を数日掠めた。
  • 魚朝恩は皇帝の態度に変化を感じつつも、なお恩礼が厚かったため自ら安心していた。元載は皇甫温・周皓と密議し、皇帝も同意した。

三月 魚朝恩誅殺

  • 三月癸酉、寒食の日、皇帝は禁中で近臣を宴した。元載は中書省に留まり、宴後、魚朝恩が営へ戻ろうとしたところを皇帝が引き止め、謀反の意を責めた。魚朝恩は弁明しつつ言辞が無礼に及び、周皓らに捕えられて絞殺された。
  • 外には事実を伏せ、観軍容使などの職を罷めたうえで「詔を受けて自死した」と偽って遺体を家へ返し、葬儀費まで支給した。
  • さらに劉希暹・王駕鶴を御史中丞に昇らせ、北軍に対しては朝恩一派も赦し、禁軍はそのままとして不安を抑えた。
  • 己丑、度支使と関内ほか諸道の転運・常平・塩鉄使を廃し、度支事務は宰相が管轄した。
  • 皇甫温は鳳翔へ移さず、陝州へ戻された。

元載の専権深化

  • 魚朝恩誅殺後、皇帝の元載への信任はかえって厚くなり、元載はさらに驕った。公衆の面前で自ら文武・才略とも古今無双と吹聴し、賄賂で政務を動かし、奢侈も際限なかった。
  • 吏部侍郎楊綰は清廉公正で元載に与しなかったため、国子祭酒へ追いやられ、代わって徐浩が用いられた。
  • 元載の威勢を示す逸話として、宣州から来た年長の知人に官職を求められた際、署名だけの書状を河北へ持たせたところ、受け取った節度使側は元載の書と聞くだけで大いに畏れ、厚遇して絹千匹まで贈ったという。

夏秋 湖南・涇原・元載への不信

  • 四月、湖南兵馬使臧玠が観察使崔灌を殺し、楊子琳は討伐を名目に出兵したが賄賂を受けて引き返した。
  • 馬璘は涇原の地が荒れ、軍を養えぬと繰り返し訴えた。そこで皇帝は李抱玉に鄭・潁二州を譲るよう促し、乙巳、馬璘は鄭潁節度使も兼ねた。
  • 王縉が太原から入朝した。
  • 六月、衛伯玉が母の喪に服したが、王昻を後任にすると配下の楊鉥らが拒否したため、朝廷は起復して衛伯玉をそのまま荊南に留めた。
  • 七月、京畿は飢饉となり、米価は一斗千銭に達した。
  • 九月、魚朝恩派であった劉希暹が不遜の言を発したとして、王駕鶴の告発により死を賜った。
  • 吐蕃は永寿へ侵入した。
  • 十一月、郭子儀が入朝すると、皇帝は元載の振る舞いをすべて承知しており、独対して戒めた。しかし元載は改めず、皇帝は次第にこれを嫌うようになった。
  • 元載は李泌を忌み、「北軍で魚朝恩と親しかったのだから陰謀を知らぬはずがない」と中傷したが、皇帝は退けた。とはいえ元載一派の攻撃が絶えぬため、皇帝は李泌を江西観察使魏少遊の下へ隠す形で江西判官に出し、元載排除の決断がつくまで待たせた。