資治通鑑唐紀 代宗睿文孝武皇帝上之下 廣徳元年 七年 763年

秋七月 改元と恩賞

  • 壬寅、群臣は皇帝に尊号を奉り、「寶應元聖文武孝皇帝」と称した。これは楚州から献上された十三の宝物を、即位の瑞祥とみなしたためである。
  • 壬子、天下に大赦を行い、年号を廣徳と改めた。
  • 史朝義討伐に功のあった諸将には、官位・爵位・食邑などがそれぞれ加えられた。
  • 回紇の可汗と可敦にも正式な冊命が下され、左右殺以下の有力者にも王号や公爵が与えられた。

楊綰の科挙改革案

  • 戊辰、楊綰は科挙・学校制度の改革案を上奏した。秀才科では経義と策問を課し、国子監の学生は博士の推薦と祭酒の試験を経て尚書省に送る仕組みとし、明法科は刑部に試験を委ねる案であった。
  • ただし、明経・進士の旧来制度を急に改めるべきではないという反対が強く、実施には至らなかった。
  • それでも、識者はこの提案を筋の通ったものとして評価した。

河隴の喪失

  • 僕固瑒が朔方行営節度使となった。
  • 吐蕃は大震関から侵入し、蘭・廓・河・鄯・洮・岷・秦・成・渭などの州を陥れ、河西・隴右の地をほぼ奪い去った。
  • 唐は武徳以来、西域へ通じる広大な辺境を都督府・州県・節度使で統治し、山東から兵士と軍資を送り、屯田・牧馬・烽戍で支えていた。
  • しかし安禄山の乱以後、精鋭辺兵を内地救援に回したため、辺境守備は弱体化し、数年のうちに西北の数十州が相次いで失われた。鳳翔以西、邠州以北は異民族の勢力下に入った。

僕固懐恩と辛雲京の対立

  • 以前、僕固懐恩は詔を受けて回紇可汗と太原で会見することになっていたが、河東節度使辛雲京は、可汗が懐恩の婿であることから、両者が結んで軍府を襲うのではないかと疑い、城門を閉ざして自衛し、軍への労いも行わなかった。
  • 史朝義平定後、懐恩が可汗を送って往復する際にも、雲京は太原で再び城を閉ざしたため、懐恩は激しく怒って訴えたが、朝廷は取り上げなかった。
  • 懐恩は朔方兵数万を汾州に置き、子の僕固瑒を榆次に、そのほか諸将を祁県・晋州・沁州に分屯させた。李懐光はもと勃海靺鞨で、功によって唐姓を賜った人物である。

駱奉仙の報告と懐恩の不安

  • 中使の駱奉仙が太原へ赴くと、辛雲京は厚くもてなして、懐恩が回紇と結んで反乱を謀っていると吹き込んだ。
  • 奉仙が帰途に懐恩のもとへ寄ると、懐恩の母は「兄弟の契りを結んだのに、なぜ雲京にも近づいて両面作戦をするのか」と責めた。
  • 酒宴では懐恩が舞い、奉仙は褒美として纒頭の彩を与えたが、翌日も引き留められたことから、奉仙は殺されるのではと疑い、夜のうちに塀を越えて逃げた。
  • 八月癸未、奉仙は長安に着いて懐恩謀反を訴えた。一方、懐恩も雲京と奉仙の讒言を訴え、両者は互いに告発しあったが、皇帝はどちらにも決定的な処分を下さず、和解を勧めるのみであった。

僕固懐恩の自訴

  • 懐恩は、安史の乱以来の戦功、自家四十六人の殉国、娘を回紇可汗に嫁がせて和親を成したこと、回紇を説得して再度の援兵を得たことなどを挙げ、自分ほど国家に尽くした者はいないのに讒言で陥れられた、と上書して訴えた。
  • また、来瑱誅殺の理由が示されなかったことから、節度使たちは皆、不安を抱いているとし、中官の讒言が君臣離間を招いていると批判した。
  • 特に程元振が奏事を左右し、四方の報告が滞る実情を挙げ、これでは国家も安らかではないと強く諫めた。
  • 懐恩は、将兵が自分の入朝を止めるので、せめて使者を絳州に遣わしてくれれば同行して朝廷へ赴く、と申し出た。

九月 裴遵慶の慰諭

  • 九月壬戌、裴遵慶が懐恩のもとへ派遣され、勅旨を伝えるとともに、その去就を見定める任を受けた。
  • 懐恩は遵慶の足に取りすがって号泣し、無実を訴えた。遵慶は恩詔を伝えて入朝を勧め、懐恩もいったんは承知した。
  • だが副将范志誠は、入朝すれば来瑱のように殺されるだけだと反対したため、懐恩は態度を変え、子のひとりを代わりに入朝させたいと願い出た。
  • 遵慶は成果なく帰還した。
  • 御史大夫王翊が回紇へ使いした際、懐恩は自分と可汗の往来事情が漏れるのを恐れて、王翊を留め置いた。

冬十月 吐蕃の急襲と長安陥落

  • 吐蕃侵入の急報は辺将から届いていたが、程元振はこれを奏上しなかった。
  • 十月、吐蕃は涇州を攻め、刺史高暉が降伏して道案内を務めたため、敵軍は邠州を過ぎて奉天・武功へ迫った。
  • 京師は大いに動揺し、雍王适を関内元帥、郭子儀を副元帥として咸陽に出し、防衛に当たらせた。
  • 郭子儀は長く閑職に置かれていたため旧部は散っており、ようやく二十騎を募って咸陽へ赴いた。
  • 吐蕃軍は吐谷渾・党項・氐・羌を率いて二十余万にのぼり、司竹園から渭水を渡って東進した。
  • 子儀は増兵を求めたが、程元振がこれを握りつぶした。
  • 癸酉、呂月将が盩厔西方で吐蕃軍を破ったが、乙亥には再戦して全軍が捕えられた。
  • 丙子、皇帝は陜州へ避難した。官吏は逃げ散り、六軍も解体同然となった。

郭子儀の帰京と豊王珙の処死

  • 子儀は咸陽から急ぎ長安へ戻ったが、車駕はすでに滻水を渡っていた。
  • 射生将王献忠は四百騎を率いて長安へ引き返し、豊王珙ら十王を脅して吐蕃迎立へ向かわせようとした。
  • 開遠門内でこれを見た子儀は彼らを叱りつけ、王たちを護送して行在へ送った。
  • 丁丑、車駕は華州に着いたが、供奉は整わず、従軍者は寒さと飢えに苦しんだ。
  • 魚朝恩が陜州から神策軍を率いて迎えに来たため、皇帝はその軍営に入った。
  • 豊王珙は潼関で皇帝に対面したが、退出後に不遜な言葉を吐いたとされ、群臣の奏請で死を賜った。

吐蕃の傀儡皇帝と長安の混乱

  • 戊寅、吐蕃は長安に入り、高暉と吐蕃将の馬重英らは、故邠王守礼の孫である承宏を立てて皇帝とし、年号を立て、百官を置いた。
  • 于可封らが宰相に任じられたが、吐蕃軍は府庫や市街を略奪し、家屋を焼き、長安はほとんど空虚となった。
  • 苗晉卿は病床から無理やり担ぎ出されたが、口を閉ざして従わなかった。
  • 散兵や無頼の者たちは各地で掠奪に及び、住民は山谷へ逃げ込んだ。

郭子儀の収兵と反攻準備

  • 辛巳、皇帝が陜州に着くと、百官も次第に合流した。
  • 郭子儀はわずか三十騎で御宿川から山中を東へ進み、商州に逃げた潰兵の収容を急ぐべきだと王延昌に語った。
  • 武関守備兵も集め、数日のうちに藍田から北上して長安に向かえば、吐蕃は退くと見込んだ。
  • 途中、元帥都虞候臧希譲・鳳翔節度使高昇らの兵近千を得て、さらに商州で諸軍をまとめた。
  • 子儀は将士に泣いて国辱を雪ぐよう諭し、第五琦を糧料使として軍糧を整えた。
  • 皇帝は、吐蕃が東へ進んで潼関を窺うことを恐れ、子儀に行在へ来るよう求めたが、子儀は「長安を収めずして陛下に会えない」として、藍田方面へ兵を出す許可を得た。
  • 段秀実は白孝徳に出兵を勧め、鄜坊の軍も南下して京畿諸軍と呼応した。

吐蕃の退却

  • 吐蕃は承宏を立てた後、城中の男女や工匠を連れ去ろうとした。
  • 子儀は長孫全緒に二百騎を与えて藍田へ出し、敵情偵察を命じた。また第五琦を京兆尹代理とし、張知節にも後続を命じた。
  • 全緒は韓公堆で昼に鼓と旗を掲げ、夜は篝火を多く焚いて大軍を装った。藍田では殷仲卿も千人近くを集めて呼応した。
  • 住民も「郭令公が大軍を率いて到着した」と吐蕃をだまし、王甫らは長安城内で夜に朱雀街へ出て太鼓を打ち鳴らして騒ぎを起こした。
  • 吐蕃軍は驚いて庚寅に総退却した。
  • 高暉は東へ逃げたが、潼関守将李日越に捕えられて殺された。

朝廷の人事と程元振弾劾

  • 壬辰、元載が元帥行軍司馬を兼ね、第五琦が京兆尹となった。
  • 癸巳、郭子儀は西京留守となった。
  • 己亥、魚朝恩配下の皇甫温が陜州刺史、周智光が華州刺史に任じられた。
  • 程元振は驃騎大将軍として専権を振るい、李輔国以上に人々に恐れられていた。功臣を嫉視し、吐蕃侵攻も時機を失して奏聞したため、諸道兵も彼を嫌って積極的に来援しなかった。
  • 太常博士柳伉は上疏し、将帥・公卿・三輔百姓・四方諸道のすべてが皇帝に背いた状態だと痛論したうえで、程元振を斬り、宦官を外へ出し、神策軍を大臣に委ね、皇帝自ら過失を認めて天下に兵を募るべきだと主張した。
  • 十一月辛丑、皇帝はようやく程元振の官爵を削り、放逐した。

十一月 郭子儀の入京と王甫誅殺

  • 王甫は自ら京兆尹を称し、二千余人を集めて官を勝手に置き、長安で暴横を働いた。
  • 壬寅、郭子儀が滻水西に至ると、王甫は兵を動かさなかった。周囲が入城を危ぶんだが、子儀はわずか三十騎で進み、人をやって王甫を呼び出した。
  • 王甫は狼狽して迎えに出たところを斬られ、その配下も散った。
  • 白孝徳・張藴琦らも入城し、京畿はようやく安定した。

広州の宦官反乱

  • 広州市舶使の宦官呂太一が兵を発して反乱を起こし、節度使張休は端州へ逃げた。
  • 呂太一は放兵して焼き討ち・掠奪を行ったが、官軍に討たれて平定された。

鳳翔防衛と馬璘の奮戦

  • 吐蕃が退いて鳳翔に来ると、節度使孫志直は城を閉ざして守り抜いた。
  • 鎮西節度使馬璘は、皇帝が陜州へ避難したと聞いて、河西から精騎千余を率いて赴難し、鳳翔包囲中の吐蕃軍に遭遇した。
  • 璘は満弓のまま外敵に向かって城中へ突入し、甲を解かず背城して戦い、みずから先頭に立って多くを斬り捕えた。
  • 翌日も敵は攻め寄せたが、城門を開けて待ち受けると、吐蕃は「この将は死を惜しまぬ」と恐れて退いた。

十二月 長安還幸

  • 十二月丁亥、車駕は陜州を発った。
  • 顔真卿は、還宮前にまず陵廟へ参るべきだと求めたが、元載は従わず、真卿はこれを痛烈に非難した。以後、元載は真卿を恨んだ。
  • 甲午、皇帝は長安へ戻った。郭子儀は百官と諸軍を率いて滻水東で迎え、伏して罪を請うたが、皇帝は「卿を用いるのが遅れたためにこうなった」とねぎらった。
  • 魚朝恩は天下観軍容宣慰処置使となり、禁軍を総べて権勢を極めた。
  • 吐蕃再侵入に備え、鄠県と中渭橋に築城・駐兵が行われ、駱奉仙がその兵を率いた。

年末の人事と吐蕃の追加侵攻

  • 乙未、苗晉卿を太保、裴遵慶を太子少傅とし、いずれも政事から退かせた。宗正卿李峴が黄門侍郎・同平章事となった。
  • 元載は董秀や主書卓英倩を通じて皇帝の意向を先取りし、ますます信任を深めた。
  • 承宏は吐蕃退去後に草野へ逃れていたが、皇帝は赦して華州に流した。
  • 程元振は婦人の服装でひそかに長安へ戻り、再起を図ったが、京兆府に捕えられた。
  • 吐蕃はさらに松・維・保三州と雲山・新築の二城を陥れ、西川節度使高適は救えなかったため、剣南西山諸州も吐蕃に入った。