資治通鑑唐紀 代宗睿文孝武皇帝上之下 廣徳二年 二年 764年
春正月 程元振の流罪と剣南再編
- 壬寅、勅により、程元振は変装してひそかに動き、不軌を図ったとして溱州へ長流に処された。だが皇帝はその保護の功を忘れず、まもなく江陵安置へと緩和した。
- 癸卯、剣南東川・西川を再び一つの道にまとめ、厳武を節度使とした。
- 丙午、顔真卿を朔方行営へ宣慰使として派遣した。真卿は、懐恩を説得しても今さら入朝は難しい、むしろ郭子儀を代えて用いれば戦わずに服するだろうと進言した。
- ちょうど李抱真も、朔方将士は郭子儀を父兄のように慕っており、懐恩は「郭子儀は魚朝恩に殺された」と偽って兵を従わせているだけだと説いた。皇帝はこれをもっともだと考えた。
太子冊立と祭祀制度
- 甲寅、礼儀使杜鴻漸が祭祀制度の改定を奏上し、円丘・方丘には太祖、祈穀には高祖、大雩には太宗、明堂には粛宗を配祀することとなった。
- 乙卯、雍王适が皇太子に立てられた。
南山の盗賊と田承嗣
- 吐蕃侵入時に発生した散兵・無頼の徒は、吐蕃退去後も南山の子午谷などに潜んで盗賊化し、各地を苦しめていた。
- 丁巳、薛景仙を南山五谷防禦使として、これらの討伐に当たらせた。
- 魏博節度使田承嗣は自らの支配地域を「天雄軍」と称することを願い出て、許可された。
僕固懐恩、太原攻略を図る
- 朝廷に用いられないと知った僕固懐恩は、河東都将李竭誠と密かに結んで太原奪取を図った。
- しかし辛雲京がこれを察知し、李竭誠を殺して城を固めた。
- 懐恩は子の僕固瑒に兵を与えて攻めさせたが、雲京に敗れて引き下がり、榆次を包囲した。
- 皇帝は郭子儀に、河東へ赴いて朔方軍を鎮撫してほしいと求めた。郭子儀が出れば汾州の軍も乱れまいと考えたのである。
- 戊午、郭子儀は関内・河東副元帥、河中節度等使となり、朔方将士は「懐恩に従って不義をなした以上、汾陽王にどんな顔をすればよいのか」と動揺した。
- 癸亥、劉晏と李峴は政事から外され、王縉・杜鴻漸が同平章事となった。李峴は宦官に憎まれていたことも失脚の一因であった。
- 丁卯、郭子儀はさらに朔方節度大使を兼ねた。
二月 郭子儀の河中鎮撫
- 郭子儀が河中に到着すると、河中守備の雲南出身兵一万人が将の貪欲と兵卒の暴横で一府の害となっていたため、十四人を斬り三十人を杖刑にして秩序を回復した。
- 癸酉、皇帝は太清宮に朝献し、甲戌に太廟を享し、乙亥に圜丘で昊天上帝を祀った。
僕固瑒の死と懐恩の潰走
- 榆次包囲が長引き、僕固瑒は祁県の李光逸軍を急遽呼び寄せた。だが兵は飢え、進軍も遅かった。
- 十将の白玉・焦暉は、遅れる兵を鳴鏑で射って煽り、「どうせ反乱に従えば死は免れない。ならば今射たれても同じだ」と言って士気を刺激した。
- 榆次に着くと、瑒は遅参を漢人兵のせいにしてこれを打擲したため、兵たちの怨みを買った。
- その夜、焦暉・白玉が兵を率いて瑒を攻め、殺害した。
- 懐恩が母に報告すると、母は「反くなと言ったのに」と嘆き、刀を提げて自ら懐恩を殺そうと追いかけたが、懐恩は逃げのびた。
- 懐恩はわずか三百騎で黄河を渡り北へ逃れた。
- 朔方将の渾釈之が守る霊州では、懐恩の「全軍帰鎮」の檄が届いたが、張韶の進言で迎え入れたところ、懐恩は渾釈之を殺して軍を奪った。
- さらに張韶も、やがて信用できないとして足を折って彌峩城に捨て置き、死なせた。
張維嶽の功の横取り
- 都虞候張維嶽は沁州から急行して汾州の軍を抑え、焦暉・白玉を殺したうえ、その功を自分の手柄として郭子儀に報告した。
- 子儀の牙官盧諒は賄賂を受けてこれを事実として取り成し、郭子儀もひとまず維嶽の功として奏上した。
- 朝廷では懐恩の子・瑒の首が届くと群臣が賀したが、皇帝は「自分の不信が勲臣をここまで追い詰めた」と言って喜ばず、むしろ恥じ入った。
- 懐恩の母は長安に迎えられて厚遇され、一か月ほどで天寿を全うし、礼をもって葬られた。これに功臣たちは深く感じ入った。
郭子儀、朔方軍を掌握
- 戊寅、郭子儀は汾州へ赴いた。懐恩の旧軍はこぞってその麾下に帰し、太鼓を打ち涙してその到着を喜び、来るのが遅かったとまで言った。
- 子儀は盧諒の虚偽を知ると、これを杖殺した。
- 李抱真の進言が的中したため、彼は殿中少監へ昇進した。
李光弼の去就
- 皇帝は、陜州避難時に李光弼が来援しなかったため将来の離反を疑っていたが、その母が河中にいたため中使をたびたび送り、懐柔した。
- 吐蕃が退くと光弼を東都留守としたが、光弼は江淮の糧運に就くことを理由に、軍を率いて徐州へ戻った。
- 皇帝はその母を長安へ迎えて厚遇し、弟の李光進にも禁兵を掌らせた。
三月 劉晏と汴水漕運
- 安史の乱以来、汴水が埋まり、漕運は江漢から梁州・洋州を経る迂遠で危険な路を使っていた。
- 己酉、劉晏を河南・江淮以東転運使とし、汴水再開を議させた。
- 庚戌には、諸道節度使と租税・徭役の均衡を図る権限も与えた。
- 当時、兵火の後で内外ともに食糧が欠乏し、関中の米価は一斗千銭、民衆は稲穂を揉んで禁軍に回し、宮中の台所にも余剰がなかった。
- 劉晏は汴水を浚渫し、元載に漕運の利害を詳細に書き送って朝廷内外を協力させ、以後は毎年数十万石の米を関中へ運ぶようになった。唐代の漕運家としては第一と評される。
党項撃退
- 甲子、盛王琦が薨去した。
- 党項が同州へ侵入すると、郭子儀は李国臣に討たせた。敵は官軍が来れば山へ逃げるため、弱兵を前に置いて誘い、精騎を後方に伏せて包囲する策を用いた。
- 国臣は澄城北で大破し、千余の首級と捕虜を得た。
夏五月 五紀暦と科挙整理
- 癸丑、新たに五紀暦が施行された。これは至徳暦が天象と合わないとして、郭献之らが古法をもとに歳差・日月五星の運行を改めて作ったものである。
- 庚申、礼部侍郎楊綰は、孝弟力田科や童子科は実態がなく幸進の道になっているとして、これをすべて廃止した。
節度使削減論
- 郭子儀は、安史がかつて洛陽を根拠にしたため諸道に節度使を置いて要地を押さえさせたが、今や大乱は収束しているのに各地の駐兵が民を疲弊させているとして、節度使の廃止を願い出た。
- まず自らの河中から始めるよう求めたので、六月、河中節度使と耀徳軍が廃止された。
- 子儀はさらに関内副元帥の辞任も願ったが、これは許されなかった。
懐恩への宥和策
- 僕固懐恩は霊武で離散兵を再収容し、勢力を立て直した。
- 皇帝はその家族を厚遇し、癸未には詔を下して、懐恩の功労を帝室と天下に著しいものと認め、疑隙は小人から生じたのであって、その本心は反逆ではないとした。
- ただし、河北副元帥・朔方節度使などの職は解き、太保・中書令・大寧郡王の号だけを残して入朝を求めた。
- 懐恩は結局これに応じなかった。
秋七月 青苗銭
- 庚子、天下に青苗銭を課して百官の俸給にあてた。
- これは軍事による財政悪化の中で、田に生えた苗に課税する案が採用されたもので、のちには地頭銭とあわせて実質的な田税として定着していく。
李光弼の死
- 李光弼は軍律厳正で、諸将はその命令に逆らえなかったため、郭子儀と並び称された。
- だが徐州にあって兵を擁しながら朝廷に出ず、田神功らも次第にその統率を軽んじるようになると、光弼はこれを恥じて病を得た。
- 己酉、李光弼が死去した。功名を全うしきれなかったことを史家は惜しむ。
八月 懐恩再度の外夷引き入れ
- 丙寅、王縉が李光弼に代わって河南・淮西・山南東道諸行営都統となった。
- 郭子儀が河中から入朝している最中、涇原から、僕固懐恩が回紇・吐蕃十万を率いて侵入しようとしているとの報が届いた。
- 京師は震え上がり、子儀は諸将を率いて奉天へ出鎮するよう命じられた。
- 皇帝が方略を問うと、子儀は「懐恩は勇はあるが恩が薄く、人心を得ていない。帰郷を望む将士を借りて来るだけで、大事は成せない」と答えた。
- 辛巳、子儀は奉天へ向かった。
- 甲午、王縉は東都留守を兼ねた。
- 河中尹崔㝢が河中鎮兵を率いて西へ向かったが、軍令が統一されていなかったため、九月丙申に軍が騒乱を起こし、官府と民家を掠めた。
九月 吐蕃との和議工作と各地の戦い
- 丙午、辛雲京に同平章事が加えられた。
- 辛亥、郭子儀が北道の、李抱玉が南道の「通和吐蕃使」に任じられた。名目上は和議使だが、実際には吐蕃の進軍を牽制する狙いがあった。
- 子儀は吐蕃が邠州へ迫ると聞き、甲寅に子の郭晞へ一万人を与えて救援に向かわせた。
- 己未、厳武は吐蕃七万を破り、当狗城を奪回した。
- この頃、関中では虫害・蝗害・長雨が重なり、米価は一斗千余銭に騰貴した。
- 懐恩の前軍が宜禄に至ると、郭子儀は李国臣を後詰に出した。邠寧節度使白孝徳は宜禄で吐蕃軍を破った。
冬十月 奉天防衛
- 懐恩は回紇・吐蕃を率いて邠州へ来たが、白孝徳と郭晞は城を閉ざして守った。
- 庚午、厳武はさらに吐蕃の塩川城を奪取した。
- 懐恩らが奉天へ迫ると、諸将は戦いを求めたが、郭子儀は「敵は深く入り、速戦を望んでいる。こちらは堅く守って油断を誘うべきだ」として許さなかった。
- 辛未夜、子儀は乾陵南にひそかに布陣した。
- 壬申未明、敵軍が襲来すると、そこに大軍がいるのを見て驚き、戦わずに退いた。
- 子儀は李懐光ら五千騎に追撃させ、麻亭まで追わせて引き返した。
- 敵は邠州へ移り、丁丑に攻めたが落とせず、乙酉には涇水を渡って退いた。
河西からの奇襲策
- 懐恩の南侵に対し、河西節度使楊志烈は、監軍柏文達に河西の精鋭五千を与え、霊武を攻めて懐恩の後顧を衝けと命じた。
- 柏文達は摧砂堡と霊武県を攻略し、さらに霊州へ迫った。
- 懐恩は永寿から急ぎ帰還し、蕃・渾の二千騎で夜襲して文達を大破した。
- 文達は残兵を率いて涼州へ戻ったが、楊志烈は「京師を助ける功はあった、兵が死んでも惜しくない」と言い放ったため、士卒の怨みを買った。
- ほどなく吐蕃が涼州を包囲すると、兵は戦わず、志烈は甘州へ逃れて沙陀に殺された。
- 沙陀とは朱耶姓の部族で、沙陀磧に住んだことからその名がある。
十一月 段秀実の軍紀回復
- 丁未、郭子儀は行営から入朝した。
- 郭晞の軍は邠州で暴行を働き、士卒十七人が市中で酒を奪い、酒造人を刺し、器具を壊す事件を起こした。
- 涇州刺史段秀実は、自ら都虞候への任命を願い出て、白孝徳に許された。
- 秀実は十七人を捕え、その首を槊に刺して市門に掲げた。
- 郭晞の営は総出で騒ぎ、白孝徳も震え上がったが、秀実はほとんど従者もつけずに晞のもとへ赴き、「一兵卒を殺したくらいで何を騒ぐのか。郭氏の勲功を汚すつもりか」と真正面から諭した。
- 郭晞は深く謝罪し、兵を解散させて軍紀を引き締めた。以後、邠州では問題が起きなくなった。
南山の盗賊平定
- 五谷防禦使薛景仙は南山の群盗討伐に手間取り、数か月成果が上がらなかった。
- 皇帝は李抱玉に討伐を命じ、最強の賊帥高玉に対して兵馬使李崇客が洋州から桃虢川を急襲して大破した。
- 高玉は成固へ逃れたが、庚申に山南西道節度使張献誠がこれを捕えて献上し、残る盗賊も平定された。
十二月 郭子儀の加官と戸口
- 乙丑、郭子儀に尚書令が加えられた。だが子儀は、太宗以後ほとんど置かれず、近くは皇太子が兼ねたほどの重官であり、自分のような臣下が受けるべきではないとして固辞し、河中へ帰鎮した。
- この年、戸部は全国の戸数を二百九十余万戸、人口を一千六百九十余万人と報告した。安史の乱以前に比べて大きく減少していた。
- 于闐王勝は帰国を命じられたが、宿衛を願って国を弟の曜に任せたいと請い、許されて開府儀同三司・武都王を授けられた。