資治通鑑唐紀 代宗 広徳 元年 763年

正月:章敬皇后追諡と来瑱の死

  • 正月、代宗の生母呉太后に「章敬皇后」の諡が贈られた。
  • 劉晏は国子祭酒から吏部尚書・同平章事に進み、なお度支などを掌握した。
  • 来瑱は襄陽にいたころ程元振の私的な依頼に応じず、また入相後も元振にとって目障りであった。元振は来瑱が不臣の心を抱くと讒言し、賊中から帰った王仲昇も元振と結んで、来瑱が賊と通じたと訴えた。
  • そのため来瑱は官爵を削られ、播州に流され、途中で死を賜った。これにより藩鎮たちは皆、程元振を激しく憎むようになった。

史朝義の最期

  • 史朝義はたびたび出戦したが、ことごとく敗れた。田承嗣は、朝義自身が幽州へ行って兵を催し、莫州救援に向かうべきだと進言し、自分は留守を請け負った。
  • 朝義は精騎五千を選んで囲みを破って北門から脱出したが、去るやいなや田承嗣は城ごと降伏し、朝義の母妻子を官軍に引き渡した。
  • 僕固瑒・侯希逸・薛兼訓ら三万は朝義を追い、帰義で戦ってこれを破った。
  • そのころ、范陽節度使李懐仙はすでに中使駱奉仙を通じて降伏を願い出ており、兵馬使李抱忠に兵三千を与えて范陽県を守らせていた。
  • 朝義が范陽へ着いても入城を拒まれた。抱忠は、唐室は再興した、すでに唐に帰した以上二心は持てぬ、田承嗣もすでに裏切っているはずだと説いた。
  • 朝義は恐れて、せめて一食を与えてくれと頼み、城東で食を受けた。このとき、范陽出身で朝義の配下にいた者たちは皆彼に別れを告げて去り、朝義はただ涙を流すばかりであった。
  • 朝義は胡騎数百を率いて広陽へ逃れたが、ここでも受け入れられず、さらに奚・契丹へ向かおうとして温泉柵に至ったところ、李懐仙の追兵に迫られ、窮して林中で首をくくって死んだ。
  • 李懐仙はその首を取って僕固懐恩に献じ、諸軍は帰還した。甲辰、史朝義の首が京師に届き、安史の乱はここに終結した。

閏月:河北節度使の分封

  • 閏月、回紇十五人が夜に含光門を犯して鴻臚寺へ乱入したが、門司は阻止できなかった。
  • 薛嵩は相・衛・邢・洺・貝・磁の六州節度使となり、田承嗣は魏・博・徳・滄・瀛五州都防禦使となった。
  • 李懐仙はそのまま幽州盧龍節度使となった。
  • このとき河北諸州はすでに降伏していたが、僕固懐恩は薛嵩・田承嗣・李懐仙・李宝臣らを各地に留めて、自らの党援にしようとした。朝廷もまた兵乱の再燃を嫌い、当面の安定を求めてこれを容認した。その結果、河北藩鎮の強大化が決定づけられた。

回紇への対処と馬燧の才覚

  • 回紇の登里可汗が帰国する際、その部衆は道中で掠奪を重ね、糧食の支給に少し不満があるだけでも平然と人を殺した。
  • 李抱玉が接待のための官属を派遣しようとすると、皆おそれて尻込みしたが、趙城尉の馬燧だけが自ら願い出た。
  • 燧はあらかじめ回紇の渠帥に賂を贈って暴掠を禁じる約束を取り付け、違令者は自分が殺してよいという旗まで与えられた。燧は死囚を左右に置き、わずかな違反でもすぐ処刑したため、回紇は顔色を失い、その境を通る者は皆命令に従った。
  • 馬燧はこの機会に李抱玉へ、僕固懐恩は功を恃んで驕り、その子瑒は勇敢だが軽率で、河北四鎮を内に植え、回紇を外援とする今、河東・沢潞をうかがう志があるから深く備えよと説いた。抱玉はこれを是とした。

襄陽で梁崇義が台頭

  • 長安出身の梁崇義は、もと羽林射生として来瑱に従い、勇力がありながら沈毅寡言で衆望を得ていた。
  • 来瑱が入朝した際、各州に分けていた守兵は、来瑱の死を聞くと皆襄陽へ戻った。行軍司馬龐充は河南へ向かう途中汝州でその報を聞き、兵を率いて引き返し襄州を襲ったが、左兵馬使李昭に防がれて房州へ逃げた。
  • 崇義は鄧州から守兵を率いて戻り、李昭・副使薛南陽と主導権を譲り合ったが決まらず、兵は「梁卿こそ主将にふさわしい」として崇義を推戴した。
  • 崇義はやがて李昭・薛南陽を殺し、その事情を上聞したが、朝廷は討てず、三月に襄州刺史・山南東道節度留後に任じた。
  • 崇義は来瑱の改葬を願い出て、そのために祠を建て、自身は来瑱の旧庁や正堂には住まなかった。

三月:玄宗・粛宗の埋葬

  • 辛酉、玄宗が泰陵に葬られ、廟号を玄宗とした。
  • 庚午、粛宗が建陵に葬られ、廟号を粛宗とした。

四月:袁晁平定

  • 李光弼は袁晁を捕え、浙東が平定されたと奏した。袁晁は一時二十万近い衆を集めて州県を転々と攻めていたが、李光弼は部将張伯儀に討たせて鎮圧した。張伯儀は魏州の人である。

吐蕃・党項への警戒

  • 郭子儀はたびたび、吐蕃・党項を軽んじてはならず、早く備えを立てるべきだと上言した。しかし代宗は十分に用いなかった。
  • 辛丑、兼御史大夫李之芳らを吐蕃へ遣わしたが、使者は抑留され、帰国まで二年を要した。

太子冊立問題

  • 群臣はたびたび太子の早期冊立を請ったが、代宗は五月、秋の収穫後に議すとする詔を出すにとどめた。

五月:河北分割の制度化

  • 河北諸州の管轄を再編し、幽州・成徳軍・相州・魏州・青淄・沢潞などに分けて統属を定めた。
  • しかし後の田承嗣・李霊耀らの乱で、実際にはこの区分通りには保たれなくなる。

六月:科挙改革論と田承嗣の強化

  • 礼部侍郎楊綰は上疏し、古来の人材登用は徳行と実務を重んじたが、近世は文章偏重となり、進士科は隋煬帝に始まり、高宗期以後はさらに形式化し、明経は帖括暗誦、進士は華辞競争に堕したと批判した。
  • 彼は、県令が孝廉や郷里での行い、経術の学識を観察して州に推薦し、州刺史が試験して尚書省に送る方式を主張した。また道挙も停止し、明経・進士とともに改めるべきだとした。
  • 給事中李栖筠、左丞賈至、京兆尹厳武らもおおむね賛同したが、流寓者の扱いなどを考えて学校・郷里双方からの推薦制度を併用すべきだと補った。代宗は礼部に具体案提出を命じた。
  • 楊綰はさらに五経秀才科の設置も請うた。
  • 庚寅、田承嗣は魏博都防禦使から節度使へ進んだ。彼は管内の壮者をほぼ全て兵籍に入れ、老弱だけを耕作に従事させたため、数年で十万の兵を擁した。また驍健な一万人を「牙兵」として親衛にし、魏の強さの基礎を築いた。
  • 同華節度使李懐譲は、程元振に讒言されることを恐れて自殺した。