正月:郊祀と李林甫の朔方遥領
- 正月、玄宗は太清宮に朝献し、ついで太廟を拝し、南郊で天地を合祭した。天下に大赦が行われ、この年の地税が免除された。
- 李林甫は朔方節度使を遥領し、戸部侍郎の李暐が留後として実務をみることになった。
正月-2月:楊氏と安禄山への異常な優遇
- 庚子、楊氏五家が夜遊びの帰途、西市門で広平公主の従者と争い、楊氏の奴が鞭で公主の衣に当て、公主は落馬した。駙馬の程昌裔も打たれた。玄宗は楊氏の奴を杖殺したが、翌日には程昌裔を免官し、公主の側にも配慮を見せなかった。
- 玄宗は安禄山のため、親仁坊にきわめて豪華な邸宅を官費で造らせた。床・屏風・帳・厨具・廏の用具に至るまで金銀で飾られ、その壮麗さは禁中の器物にも劣らなかった。
- 工事や賜物の監督に派遣する中使には「胡人は眼が大きいから、こちらを笑わせるな」とまで言い含めた。
- 邸宅完成後、安禄山が相府の来訪を墨敕で求めると、玄宗は楼下での毬戯を中止して宰相らを行かせ、さらに楊氏一族にも宴遊を助けさせ、梨園・教坊の楽まで添えた。
- 玄宗は、食物や狩猟の獲物で少しでも良い物があればすぐ安禄山へ届けさせ、その使者は途切れなかった。
2月:安禄山の「洗児」
- 甲辰は安禄山の誕生日で、玄宗と楊貴妃は衣服・宝器・酒食を手厚く賜った。
- その三日後、安禄山は禁中に召され、楊貴妃は錦の大きな襁褓で彼を包み、宮人に彩輿で担がせた。これを「三日洗児」と称し、後宮一帯が大笑いした。
- 玄宗も自ら見に行って大いに喜び、楊貴妃には洗児の金銀銭を、安禄山にも多くの賞賜を与えた。
- 以後、安禄山は宮中への出入りをほとんど制限されず、楊貴妃と対食したり、夜通し宮中に留まることさえあった。外では醜聞がささやかれたが、玄宗は疑わなかった。
2月:高仙芝・安思順・安禄山
- 高仙芝が入朝し、突騎施可汗・吐蕃酋長・石国王・朅師王などの捕虜を献じたため、開府儀同三司を加えられた。
- まもなく河西節度使に移されたが、安思順が配下の胡人を使って耳をそぎ顔を裂くなどの異様な嘆願をさせたため、玄宗は思順を河西に留任させた。
- 2月丙辰、安禄山は河東節度使も兼ねるようになった。韓休珉は左羽林将軍へ移された。
2月以後:安禄山の勢力拡大と謀反の基盤
- 吉温は安禄山の寵遇ぶりを見て接近し、兄弟の契りを結んだうえで、李林甫は安禄山を必ずしも将来の宰相候補とは考えていないと説き、自分を推挙してくれれば、こちらも安禄山を大任に推すと持ちかけた。安禄山はこれを喜び、吉温を河東節度副使・留後に据えた。張通儒も留後判官となった。
- 楊国忠が御史中丞でまだ勢力拡大の途上にあった頃、安禄山は昇降のたび国忠に手を貸してもらっていた。
- 安禄山は王鉷と同じ御史大夫であったが、李林甫に対してのみは威圧された。李林甫は王鉷をわざと呼び出して礼のあり方を見せつけたり、安禄山の心中を先回りして言い当てたりして、彼を畏服させた。安禄山は李林甫の前では真冬でも汗を流したという。
- 帰国後の安禄山は、三鎮を兼ねて賞罰を専断し、ますます驕恣となった。太子に礼を取らなかった過去を思い、また中原の武備が衰えているのを見て、内心では中国を軽んじるようになった。
- 孔目官の厳荘と掌書記の高尚は図讖を解いて彼をそそのかし、反乱を勧めた。
- 安禄山は同羅・奚・契丹の降人八千余を養って「曳落河」と呼び、さらに家僮百余人も選りすぐりの勇士とした。私兵として一騎当百の者をそろえ、戦馬も数万匹蓄えた。
- また商胡を各道へ派遣して私貿易を行わせ、毎年数百万の珍貨を運ばせたほか、緋紫の袍や魚袋まで大量に私製した。
- 高尚・厳荘・張通儒・孫孝哲・史思明・安守忠・李帰仁・蔡希徳・牛廷玠・向潤容・李庭望・崔乾祐・尹子奇・何千年・武令珣・能元皓・田承嗣・田乾真・阿史那承慶らを腹心・爪牙としていた。
- 高尚は雍奴の人で、本名を不危といい、貧窮の中で大事を成して死ぬべきだと豪語していた人物である。厳荘は牋奏を、張通儒は簿書を掌った。田承嗣は盧龍の小校出身で、軍律をよく守ることから安禄山に重んじられた。
4月:南詔討伐の大敗
- 鮮于仲通は八万の兵を二道に分け、戎州・嶲州方面から南詔へ進軍した。
- 南詔王閤羅鳳は謝罪し、捕虜や掠奪物を返し、雲南城も修復して退去すると申し出たうえ、もし受け入れられなければ吐蕃に帰順し、雲南は唐の地ではなくなると警告した。
- しかし鮮于仲通はその使者を囚えて進軍し、西洱河で戦って大敗した。兵士六万人が戦死し、仲通は辛うじて身一つで逃げ帰った。
- 楊国忠は敗北を隠し、なお戦功として報告した。
- 閤羅鳳は戦死者の遺体を集めて京観を築き、吐蕃に臣従した。吐蕃からは贊普の弟にあたる称号「東帝」を与えられ、金印も授けられた。
- 閤羅鳳は国門に碑を刻み、自分の反唐は本意ではなく、後世もし唐に帰順する時が来れば、この碑を見て事情を知ってほしいと記した。
- 朝廷は両京と河南・河北で大募兵を行ったが、雲南の瘴癘を恐れて応じる者は少なく、楊国忠は御史を派遣して人々を捕らえ、枷を連ねて軍へ送った。
- 本来は勲功者は役を免じられるべきところ、国忠は高等の勲位者から先に徴発したため、出征者の家族の泣き声が野に満ちた。
春-夏:高仙芝の怛羅斯敗戦
- 石国王の子が逃れ、諸胡に高仙芝の欺瞞と貪暴を訴えたため、諸胡は怒って密かに大食を引き入れ、四鎮を攻めようとした。
- 高仙芝は蕃漢三万を率いて西へ七百余里進み、恒羅斯城で大食軍と五日間対陣した。
- ところが葛羅禄が途中で寝返って大食と挟撃し、唐軍は大敗した。兵士はほぼ全滅し、生き残りは数千にすぎなかった。
- 李嗣業が夜のうちの撤退を勧め、道を塞いでいた抜汗那の兵を大棍でなぎ倒して突破したため、高仙芝は脱出できた。
- 途中で離散していた段秀実は、李嗣業に対し、敵を避けて先に逃げるのは勇でも仁でもないと叱責した。李嗣業はその言葉を受け入れて彼に謝り、追兵を防ぎつつ散兵を収容してともに帰還した。
- 安西に戻ると、高仙芝は段秀実の働きを認め、都知兵馬使兼判官とした。
8月-年末:武庫火災と安禄山の契丹征討失敗
- 8月、武庫が火災に遭い、兵器三十七万点が焼失した。
- 安禄山は幽州・平盧・河東の兵六万を率い、奚騎二千を先導として契丹を討った。
- 平盧から千余里進んだ土護真水のあたりで長雨に遭い、強行軍のすえ契丹の牙帳へ達したが、久雨で弓弩の膠が緩み、兵も疲れていた。
- 何思徳が三日静観すれば敵は降ると進言したが、安禄山は怒って斬ろうとした。何思徳は前駆して戦死し、彼が安禄山に容貌が似ていたため、敵は本物を討ったと思って勢いづいた。
- さらに奚が再び叛いて契丹に合流し、唐軍は挟撃されて大敗した。安禄山自身も矢を受け、鞍が折れ、冠の簪も履物も失って、わずか二十騎で師州へ逃げ込んだ。
- 帰責は左賢王哥解と河東兵馬使魚承仙に転嫁され、二人は斬られた。
- 史思明は敗北を恐れて山谷に逃げ、二十日近くして散卒七百人を集めた。史定方が精兵二千で救援したため、安禄山はようやく危地を脱した。
- 史思明が現れると、安禄山は「おまえがいればもう憂いはない」と喜んだが、史思明は内心、もしもっと早く出ていたら自分も哥解らとともに殺されていたと語った。
- 契丹が師州を包囲すると、安禄山は史思明にこれを撃退させた。
- 10月、玄宗は華清宮に行幸した。
- 楊国忠は鮮于仲通に命じて、みずからが剣南節度使を遥領すべきだとの上表をさせた。
- 11月、楊国忠は剣南節度使を兼ねた。