資治通鑑唐紀 玄宗 天寶 十一載 752年

正月-3月:悪銭対策の混乱

  • 正月、玄宗は宮城へ帰還した。
  • 2月、朝廷は粟帛や庫銭数十万緡を両市に出し、悪銭との交換を始めた。
  • もともと江淮では質の悪い銭が多く、貴戚や豪商が良銭を集めて長安に持ち込み、市場は大きな迷惑をこうむっていたため、李林甫がこれを禁じ、官が一定期間内に交換させる法を立てた。
  • しかし商人たちは強く反発し、楊国忠の馬を取り囲んで不便を訴えた。国忠が上に取り次いだ結果、鉛・錫で鋳たものや穴のあいたもの以外は従来通り使用を認めるように方針が緩められた。

3月:阿布思の叛離

  • 安禄山は二十万の蕃漢歩騎を集め、前年の雪辱を期して再び契丹を討とうとした。
  • かつて来降していた突厥の阿布思は、李献忠の姓名を賜り、朔方節度副使・奉信王にまで昇っていたが、安禄山の下風に立つことをよしとせず、両者は不和だった。
  • 安禄山は、阿布思に同羅数万騎を率いさせて同行を求めた。阿布思は害されることを恐れ、留後の張暐に上奏して留めてもらおうとしたが許されなかった。
  • そこで阿布思は部衆を率いて倉庫を略奪し、漠北へ叛走した。安禄山は進軍できず、遠征は頓挫した。

3月:部名改称

  • 乙巳、吏部を文部、兵部を武部、刑部を憲部と改称した。

春夏:王鉷兄弟の失脚

  • 王鉷は戸部侍郎兼御史大夫・京兆尹として権勢をふるい、二十余の使職を兼ね、使院には文案が山積した。中使の賜物も絶えず門前に届いた。
  • 李林甫でさえこれを避けるほどで、王鉷の子王準は李林甫の子李岫を侮っても平然としていた。
  • 王準は駙馬都尉の王繇をもてあそび、冠の玉簪を弾き折ったが、王繇はなお酒宴を設け、公主に給仕させた。王繇は「上の怒りよりも、七郎が生殺与奪を握ることの方が恐ろしい」と語った。
  • 王鉷の弟・王銲は凶険で、術士任海川に自分に王者の相があるかと問うた。任海川が恐れて逃げると、王鉷は口封じに捕えて杖殺した。
  • さらに王府司馬の韋会も、王繇の同母弟であったが、私宅での雑談を王鉷に知られ、長安尉賈季鄰に捕えられて獄中で縊死させられた。王繇は何も言えなかった。
  • 王銲と親しかった邢縡は、龍武万騎と組んで龍武将軍を殺し、その兵で李林甫・陳希烈・楊国忠を除こうと企てたが、二日前に密告された。
  • 4月乙酉、玄宗は臨朝し、訴状を王鉷に手渡して逮捕を命じた。王鉷は弟が邢縡のもとにいることを知っていたため、先に呼び戻そうとしてわざと捕縛を遅らせた。
  • そのすきに邢縡は数十人で武装して逃走し、王鉷と楊国忠が追ったが、飛龍禁軍も加わってようやく斬られた。
  • 楊国忠はこれをもって王鉷も陰謀に加担していると上奏した。玄宗は王鉷を深く信任していたため当初は疑わず、李林甫も弁護したが、王鉷が自ら罪を請わなかったため、玄宗は怒った。
  • 陳希烈が大逆にあたると強く論じ、戊子、楊国忠と陳希烈に取り調べを命じ、国忠には京兆尹も兼ねさせた。
  • その結果、任海川・韋会らの件もすべて発覚し、王鉷は自尽を賜り、王銲は朝堂で杖殺された。王準・王偁は嶺南へ流され、ほどなく誅された。
  • 王鉷の家産は数日かかっても調べ尽くせぬほどであった。賓客は誰も近づかなかったが、采訪判官の裴冕だけが遺体を収めて葬った。

4月-6月:李林甫と楊国忠の対立激化

  • 李林甫はもともと陳希烈を操りやすい宰相として引き立てたが、晩年になると陳希烈も次第に敵対するようになり、李林甫は不安を募らせた。
  • 李献忠の叛走もあり、李林甫は朔方節度使の兼任を解き、河西節度使の安思順を後任に推した。庚子、安思順が朔方節度使となった。
  • 5月、慶王琮が薨じ、靖徳太子を追贈された。
  • 丙辰、楊国忠は京兆尹のまま御史大夫・京畿関内採訪使となり、王鉷が握っていた使職はほとんど国忠の手に移った。
  • もともと李林甫は、貴妃一族である国忠を軽く見て厚遇していたが、国忠は王鉷とともに中丞でありながら、王鉷が李林甫の推薦で大夫に上がったことを不満に思っていた。
  • そこで邢縡の獄を徹底的に掘り下げ、李林甫が王鉷兄弟や阿布思と私通した証拠を引き出そうとした。陳希烈や哥舒翰もこれを裏づけ、玄宗は李林甫に疎くなった。
  • こうして楊国忠の勢いは天下を震わせ、李林甫との敵対は決定的となった。

6月-9月:対南詔・対吐蕃戦と左蔵再訪

  • 6月、楊国忠は、吐蕃六十万が南詔救援に来たが剣南兵が雲南でこれを破り、故隰州など三城を奪回したと奏した。実際には剣南の将兵の戦果を自らの功にして報告した形である。
  • 捕虜六千三百のうち、道が遠いため精壮千余人と酋長・降人だけを選んで献上した。
  • 8月、玄宗は再び左蔵を見て群臣に帛を賜った。
  • ついで楊国忠は、左蔵庫の屋上に鳳凰が現れたと奏した。出納判官の魏仲犀は、鳳凰が庫西の通訓門に集まったと言上したため、その門は鳳集門と改名され、魏仲犀も昇進した。
  • 楊国忠の属吏たちは、鳳凰出現の「めでたい余沢」で任官を得たとして、こぞって優遇を受けた。

秋冬:楊国忠の蜀赴任問題と李林甫の死

  • 南詔がたびたび蜀辺を侵したため、蜀人は楊国忠に現地赴任を求めた。
  • 李林甫はこれに乗じて国忠を蜀へ送ろうとしたが、国忠は出発に際し涙ながらに玄宗へ別れを告げ、「林甫に殺される」と訴えた。楊貴妃も取りなした。
  • 玄宗は「しばらく行って軍事を整えよ。帰れば宰相にする」と約束した。
  • 李林甫はこの頃すでに病が重く、憂悶していた。巫者が天子に一目会えば快方に向かうと言うので、玄宗は見舞おうとしたが、左右が危険を諫めたため、降聖閣に登って遠くから紅巾を振って見舞った。李林甫は立拝できず、人に代拝させた。
  • 楊国忠が蜀へ着くころ、玄宗はただちに中使を送って呼び戻した。昭応で病床の李林甫を見舞った国忠に対し、李林甫は「自分は死ぬ。あなたは必ず宰相になる。後事を頼む」と涙ながらに言った。
  • 11月丁卯、李林甫が死去した。
  • 玄宗は晩年、天下は承平で憂うべきことはないと考え、禁中に深くこもって声色にふけり、政事をもっぱら李林甫に委ねていた。李林甫は左右に取り入り、言路を塞ぎ、賢者を排し、大獄を起こして権勢を張り、太子以下が皆これを恐れた。十九年の相位のあいだに、天下の乱の芽は養われていった。
  • 庚申、楊国忠が右相兼文部尚書となり、兼ねていた使職はそのままとされた。
  • 国忠は弁舌は立つが軽躁で威儀に欠け、自ら天下を担うつもりで果断に政務を処理した。朝廷では袖をまくり腕を握って威張り、公卿以下を顎で使った。
  • 侍御史から宰相になるまでに、四十余りの使職を兼帯した。
  • 自分に従わない有能な台省官は外へ追いやった。陝郡の進士張彖は、世人が国忠を泰山のように頼るのに対し、「自分には冰山に見える。日が出れば溶けて頼るところを失う」と言って、嵩山に隠れた。
  • 国忠は崔円を剣南留後とし、魏郡太守の吉温を御史中丞兼京畿関内採訪使に呼び戻した。吉温は范陽で安禄山に別れを告げ、禄山の子安慶緒が境まで馬を引いて送った。以後、吉温は朝廷の動静をことごとく范陽へ知らせ、二泊三日ほどで届くほど迅速だった。

12月:銓選改革

  • 楊国忠は人望を集めようとして、文部の選人について、賢否を問わず在職年次の深い者をとどめ、資格に応じて欠員へ任命する方針を立てた。
  • 長く滞っていた選人たちはこれを喜び、国忠は、何をするにも人の望むところをよくくみ取るため、かなりの称賛を得た。
  • 甲申、史思明は平盧兵馬使のまま北平太守・盧龍軍使を兼ねた。
  • 丁亥、玄宗は華清宮から帰還した。
  • 丁酉、封常清が安西行軍司馬から安西四鎮節度使に昇った。
  • この冬、哥舒翰・安禄山・安思順がそろって入朝した。玄宗は高力士に命じて城東で三人を宴会させ、兄弟として和解させようとした。
  • 安禄山が「自分は父が胡、母が突厥で、あなたは父が突厥、母が胡だから同族に近い」と言うと、哥舒翰は「狐が巣穴に向かって鳴くのは本を忘れぬからだ」と切り返し、安禄山を暗に胡人と嘲った。安禄山は激怒し、以後いっそう恨みを深くした。

年末:棣王琰の失寵

  • 棣王琰の二人の孺人が寵を争い、その一人が呪符を書いて琰の履物に入れた。
  • 監院宦官と琰は不和であったため、宦官がこれを密奏した。玄宗は履物を調べさせて符を見つけ、琰を問い詰めた。
  • 捜査の結果、孺人のしわざと分かったものの、玄宗はなお琰の関与を疑い、鷹狗坊に幽閉して朝請を絶った。
  • 琰は憂憤のうちに死去した。