資治通鑑唐紀 玄宗 天寶 九載 750年

正月-3月:楊貴妃の復寵と朅師の制圧

  • 正月、玄宗は宮城へ帰還した。
  • 群臣はしばしば西嶽封禅を請い、玄宗はいったんこれを許した。
  • 2月、楊貴妃が再び勅意に逆らったため、私第へ帰された。吉温は宦官を通じて「宮中の一席を惜しんで外で生かしておくのは、かえって辱めだ」と述べ、楊貴妃への取り入りを図った。
  • 玄宗もすぐに後悔し、中使に御膳を持たせて遣わした。楊貴妃は涙ながらに感謝し、所持品はすべて天子の賜物で献上には足らぬとして、自らの髪を切って真情のしるしとした。
  • 玄宗はただちに高力士を派遣して呼び戻し、以後いっそう寵愛を深めた。
  • 当時は貴戚たちが競って珍味を献じ、宮中の飲食は極度にぜいたくになった。進食使のもと、水陸の珍羞が数千盤も並び、ひと皿で中家十戸分にあたる費用がかかることもあった。
  • 中書舎人の竇華が退朝時に公主の進食隊列に行き会い、その間を通っただけで宮苑の小児らに杖で襲われ、やっとのことで逃れた。
  • このころ高仙芝は朅師を破り、その王勃特没を捕えた。
  • 3月、玄宗は勃特没の兄・素迦を新たな朅師王に立てた。

春:西嶽封禅の中止

  • 王鉷に命じて華山への道を開かせ、山上に壇場を設けさせていたが、この春は関中が旱ばつに見舞われた。
  • 辛亥、岳祠が火災に遭ったため、西嶽封禅の計画は取りやめとなった。

4月-5月:宋渾失脚・楊釗の政敵切り崩し・安禄山封王

  • 4月、御史大夫宋渾が巨額の贓罪で潮陽へ流された。
  • 吉温はもとは李林甫の引き立てで進んだが、楊釗の恩寵が深まると寝返り、李林甫の腹心であった蕭炅・宋渾の罪を探し出して、楊釗に奏上させて失脚させた。李林甫は救えなかった。
  • 5月、安禄山は東平郡王に封じられた。唐で将帥が王に封じられるのは、ここに始まる。

7月-8月:広文館、朔方の軍紀、三恪の再編

  • 7月、国子監に広文館が置かれ、進士業を学ぶ諸生を教えさせた。
  • 8月、安禄山は河北道採訪処置使を兼ねた。
  • 朔方節度使の張斉丘は食糧支給の失策から軍士の怒りを買い、判官が殴打されたが、兵馬使の郭子儀が身を挺して張斉丘を守ったため、事なきを得た。
  • その後、張斉丘は済陰太守へ左遷され、安思順が朔方節度を暫時掌握した。
  • 処士崔昌が、周・隋は正統でないからその子孫を二王後とするのは不当であり、土徳による王朝継承を周・漢につなげるべきだと上言した。
  • 集議の夜に尾宿に四星が集まったことを、集賢殿学士の衛包が天意だと説いたため、玄宗は殷・周・漢の後裔を三恪とし、韓・介・酅の公を廃した。崔昌は左賛善大夫、衛包は虞部員外郎となった。

10月-12月:符瑞熱・安禄山の歓待・楊国忠への改名・石国攻略

  • 10月、玄宗は華清宮へ行幸した。
  • 太白山人王玄翼が、玄元皇帝が宝仙洞に妙宝真符ありと告げたと上言し、張均らが赴いてそれを得た。道教尊崇と長生不老への傾倒の中で、各地で符瑞が争って報告され、群臣の賀表は毎月絶えなかった。
  • 李林甫らもみな私宅を道観に改め、聖寿を祈ると請願した。
  • 安禄山はたびたび奚・契丹を酒宴に招いて毒酒で酔わせて穴埋めにし、その酋長の首を箱に収めて献上した。こうしたことが何度もあったため、玄宗はその来朝を許し、昭応に官費で邸宅を建てさせた。
  • 安禄山が戯水に到着すると、楊釗の兄弟姉妹らが郊外まで出迎え、車馬が野を覆った。玄宗自ら望春宮に出て待つほどの待遇であった。
  • 辛未、安禄山は奚の捕虜八千人を献じ、考課の日には最上の評価を与えられた。さらに上谷での鋳銭五炉の成果として銭の見本を献上した。
  • 楊釗は張易之の外甥であったため、その兄弟の罪をすすいでほしいと願い出た。玄宗は、中宗を房陵から迎える功があったとして、その官爵を回復し、一子に官を与えた。図讖に「金刀」の語があったことから、楊釗は改名を願い、玄宗は「国忠」の名を賜った。
  • 12月、玄宗は宮城へ帰還した。
  • 関西遊奕使の王難得が吐蕃を破って五橋・樹敦城を奪い、白水軍使となった。
  • 高仙芝は石国と講和すると偽って急襲し、国王とその民を捕え、老弱はほとんど殺した。多量の瑟瑟・黄金・駱駝・馬・雑貨を奪い、その大半を私蔵した。これが後に石国の王子らが諸胡を扇動して大食と結ぶ原因となる。

年末:南詔の反乱

  • 鮮于仲通が剣南節度使となったが、性格が偏狭で苛急であり、蛮夷の人心を失った。
  • 従来、南詔は妻子を連れて都督に拝謁し、雲南太守張虔陀もこれに私恩を施していたが、やがて過度の徴求を行った。
  • 南詔王閤羅鳳がこれに応じないと、張虔陀は侮辱の言葉を浴びせ、密かにその罪を奏上した。
  • 閤羅鳳は憤り、この年ついに兵を挙げて雲南を攻め落とし、張虔陀を殺し、三十二の羈縻州を奪った。