資治通鑑唐紀 玄宗 天寶 八載 749年

2月:左蔵の公開と財政の誇示

  • 玄宗は百官を率いて左蔵を見せ、帛を下賜した。
  • 当時、州県は豊かで、倉庫の粟帛は莫大に積み上がっていた。楊釗は各地の備蓄を換金し、租税も布帛に換えて京師へ送らせ、しばしば国庫の充実を奏上した。
  • 玄宗は国用の豊かさを誇示するため群臣にこれを見せ、楊釗に紫衣と金魚袋を賜って賞した。
  • この財政的豊かさを背景に、玄宗は金帛を軽く見て、寵臣や外戚への賞賜を際限なく行った。

3月:横塞軍の設置と郭子儀

  • 張斉丘は中受降城の西北、木刺山に横塞軍を築き、振遠軍使の郭子儀を横塞軍使とした。

4月-5月:李林甫の弾圧と府兵制の停止

  • 咸寧太守の趙奉璋が李林甫の罪を二十余条にわたり告発したが、上奏が届く前に李林甫が知り、御史に逮捕させ、「妖言」として杖殺した。
  • それ以前から府兵制はすでに深刻に崩れていた。折衝府には徴発のための木契や銅魚符が備えられていたが、彍騎の設置以後、府兵の欠員は補充されず、馬・牛・器械・糧食も失われていた。
  • 宿衛に入る者は「侍官」と呼ばれたが、実際には本衛の私役に使われ、長安の人々はこれを恥辱と感じていた。
  • 辺境守備の兵も将の酷使を受け、死ねばその財産を将が没収することが多く、府兵になるべき者は皆逃亡・潜匿するようになった。
  • 5月、李林甫は折衝府の上下魚書を停止するよう奏請し、以後、府兵制は名ばかりとなった。折衝・果毅の官も昇進がなく、士大夫も就任を恥とした。
  • 彍騎も次第に変質し、応募者は市井の無頼が主となった。長い太平で、中国内部の兵備は軽視され、民間の武器携帯も禁じられ、武官は軽んじられたため、精兵は西北に集中し、中国本土はほとんど無防備となった。

5月-6月:符瑞の喧伝と祖宗尊号の追加

  • 太白山の李渾らが、神人から金星洞の玉板石記を見たと上奏し、王鉷が仙遊谷で探索してこれを得た。玄宗はこうした符瑞の続出を、祖宗の徳によるものだと考えた。
  • 6月、聖祖老子の号を「大道玄元皇帝」とし、高祖以下の先帝・諸太后の諡号に「大聖」「順聖」などの尊称が加えられた。
  • 刑部尚書兼京兆尹の蕭炅は収賄により汝陰太守へ左遷された。

6月-閏月:石堡城攻略

  • 玄宗は哥舒翰に、隴右・河西・突厥阿布思の兵に朔方・河東兵を加えた計六万三千で、吐蕃の石堡城を攻めさせた。
  • 石堡城は三方が絶壁で、登れる道は一筋しかなく、守兵は少数ながら糧秣と落石の備えが十分だったため、唐軍は以前から攻略できなかった。
  • 哥舒翰は攻撃を続けたが落とせず、高秀巌・張守瑜を斬ろうとした。二人は三日で陥とすと誓い、その通り攻略に成功した。
  • ただし吐蕃兵四百を捕えた一方で、唐軍の死者は数万に及び、王忠嗣がかつて危険を警告した通りの大損害となった。
  • その後、哥舒翰は赤嶺以西に屯田を開き、龍駒島に流刑兵二千を守備させたが、冬に氷が張ると吐蕃軍が大挙して襲来し、守兵は全滅した。
  • 閏月、石堡城は神武軍とされ、また剣南西山の索磨川に保寧都護府が置かれた。

閏月-7月:太清宮と突騎施

  • 玄宗は太清宮に親謁した。
  • 群臣はさらに「開元天地大宝聖文神武応道皇帝」の尊号を奉り、大赦が行われた。今後、禘祫の祭でも太清宮の聖祖前にしかるべき座次を設けることとされた。
  • 7月、突騎施の移撥を十姓河汗に冊立した。

8月-11月:西域諸国と吐火羅の要請

  • 8月、護密王羅真檀入朝し、宿衛に留まりたいと願ったため、左武衛将軍に任ぜられた。
  • 10月、玄宗は華清宮へ行幸した。
  • 11月、吐火羅葉護の失里怛伽羅が使者を送り、朅師王は唐に親附しているが、吐蕃と小勃律のため苦境にあり、安西兵を派遣して来年正月に小勃律、六月に大勃律へ至るようにしてほしいと請願した。
  • 玄宗はこれを許した。