4月:高力士の栄達
- 左監門大将軍で内侍省を統轄していた高力士に、驃騎大将軍が加えられた。
- 高力士は長年にわたり玄宗の厚恩を受け、内外で畏れられていた。太子は兄と呼び、諸王や公主の婿たちは父親同然に遇した。
- 李林甫や安禄山らも高力士を通じて将相の地位を求め、その家の富は莫大となった。
- 西京の宝寿寺に鐘が完成した際、高力士は盛大な斎会を開き、朝臣がこぞって参集した。鐘を一打するごとに多額の施銭をし、媚びる者は何度も撞いた。
- もっとも、高力士は性格が柔和で慎み深く、時勢を見て振る舞い、驕横に陥らなかったため、玄宗の信任は終生変わらず、士大夫も激しく憎まなかった。
5月:尊号と三恪
- 群臣は玄宗に「開元天宝聖文神武応道皇帝」の尊号を奉った。
- 天下に大赦が出され、翌年分の租庸が免除された。
- あわせて、後魏の子孫から一人を選び、三恪に列しようとした。
6月:楊釗の急速な台頭
- 安禄山に鉄券が与えられた。
- 度支郎中兼侍御史の楊釗は、玄宗の好悪を巧みに見抜き、それに迎合して財貨を集め、短期間で十数の使職を兼ねるまでに昇進した。甲辰には給事中兼御史中丞となり、もっぱら度支を判じた。
- これについて蘇冕は、官司の職掌を乱し、利を説く姦臣が多くの使職を設けて民から苛斂し、虚数で功績を誇ることが、ついには大乱を招くと論じた。宇文融・楊慎矜・王鉷・楊国忠の系譜を挙げ、「盗臣がいても聚斂の臣はいないほうがましだ」という古語の正しさを強調した。
10月-12月:華清宮行幸と楊氏一族の専横
- 10月、玄宗は華清宮に行幸した。
- 11月、楊貴妃の姉たち三人が韓国夫人・虢国夫人・秦国夫人に封じられた。三人はいずれも才色を備え、玄宗は親しみをこめて「姨」と呼んだ。
- 彼女たちは宮中への出入りで恩沢を受け、その権勢は天下を傾けた。命婦が参内する際には、玉真公主らさえ席を譲って遠慮した。
- 三姉妹に楊銛・楊錡を加えた五家は、請託を受ければ必ずかなえ、諸王の婚姻のような事柄まで多額の賄賂で左右した。四方からの贈賄が門前に群がり、朝夕市のようだった。
- 彼らは競って豪壮な邸宅を築き、少しでも他家に劣るところがあると壊して作り直した。とくに虢国夫人は放縦で、韋嗣立の旧宅を強引に取り壊して新邸とし、代地を少し与えただけだった。
- 邸宅の仕上げをした工人がさらに報酬を求めると、虢国夫人は高価な絹を大量に与えたが、工人は堂中の細かな生き物の数まで数え、紛失があれば弁償させられるのを恐れて正当な対価を受け取ろうとしなかった。
12月:祥瑞・青海方面の築城・南詔王の死
- 玄元皇帝が朝元閣に降臨したとの報があり、会昌県を昭応県と改め、新豊県は廃して昭応に併合された。
- 辛酉、玄宗は宮城へ帰還した。
- 哥舒翰は青海のほとりに神威軍を築き、吐蕃軍を撃破したうえ、さらに青海中の龍駒島に応龍城を築いた。吐蕃はその後、青海に近づくことを恐れるようになった。
- この年、雲南王帰義が死去し、その子の閤羅鳳が位を継いだ。子の鳳迦異は揚瓜州刺史となった。