12月:安西節度使の交代と軍中の粛正
- 玄宗は高仙芝を安西四鎮節度使に任じ、夫蒙霊詧を召還した。霊詧は、かねてから自分のもとで高仙芝を中傷していた部下たちのこともあり、大いに不安になった。
- 高仙芝は、程千里・畢思琛・王滔らを面前で厳しく叱責したが、最終的には処罰を加えず、「不満を口に出した以上、もうわだかまりはない」と告げたため、軍中はかえって落ち着いた。
封常清の登用
- 封常清は猗氏の人で、早くに父を失い、貧しく容貌もすぐれず、足にも障りがあったが、高仙芝に仕えることを強く望んだ。はじめは拒まれたものの、何十日も門前で機会をうかがって認められた。
- 達奚部の反乱を高仙芝が討った際、封常清が私に作成した戦果報告は、高仙芝の意を見事に言い表しており、これによって府中でその才が高く評価された。
- 高仙芝が節度使になると、封常清を判官に取り立て、出征中はしばしば留後として府務を任せた。
鄭徳詮処罰と軍紀の確立
- 高仙芝は乳母の子である鄭徳詮を兄弟同然に遇し、家政を任せていたため、軍中でも権勢を振るっていた。
- あるとき封常清が外出中、鄭徳詮が馬で後ろから突っ切る無礼を働いた。封常清は使院に戻ると、鄭徳詮を呼び出し、門を一つずつ閉めて逃げられぬようにしたうえで、軍政を正すためとして六十杖を加え、引きずり出した。
- 高仙芝の妻と乳母が門外で泣いて助命を求めたが、封常清は聞き入れなかった。報告を受けた高仙芝は驚いたものの、封常清と会ってからはこの件を蒸し返さなかった。封常清も謝罪せず、軍中ではその峻厳さが恐れられた。
辺境統治の変質
- 唐の建国以来、辺境の節度を預かる将帥には、忠厚で名望ある大臣が任じられ、長期在任・遠隔兼領・多道兼統は原則として避けられてきた。功名を立てた者は中央に召され、宰相となる例も多かった。
- 異民族出身の名将であっても単独で大軍を専断させず、必ず大臣がその上に立って統制した。
- しかし開元年間中ごろから、皇帝が対外拡張を志したため、辺将の長期在任が進み、皇子や宰相の遥領、多道兼統も始まった。
- 李林甫は、辺将が功績によって宰相へ上る道を断とうとして、「文臣よりも、勇敢で孤立した寒門・胡人の将がよい」と進言し、玄宗もこれを喜んだ。その結果、安禄山・安思順・哥舒翰・高仙芝ら、諸道の節度使が胡人中心となった。
- 精兵はことごとく北辺に集められ、天下の軍事的重心は偏った。後に安禄山が天下を覆すに至る遠因は、李林甫が寵を専らにし地位を守るためのこの人事方針にあった。