資治通鑑唐紀三十一 玄宗 五載 五年 746年

正月:李適之失脚の端緒

  • 皇甫惟明が隴右節度使に加えて河西節度使も兼ねた。
  • 李適之は率直で、李林甫から「華山には金鉱があり、採れば国を富ませられるが、主上はまだ知らない」と吹き込まれた。
  • 適之がそのまま玄宗に奏すると、林甫は「以前から知っていたが、華山は陛下の本命・王気の地なので掘るのはよくないため黙っていた」と答えた。
  • 玄宗は林甫が自分を思うと感じ、適之には「今後の奏事はまず林甫と議せよ」と命じたため、適之は手足を縛られたも同然となった。

韋堅・皇甫惟明事件

  • 李適之が恩を失い、韋堅も権を奪われると、両者はますます親密になった。李林甫はこれを強く警戒した。
  • そもそも太子擁立は林甫の本意ではなく、彼は将来の報復を恐れて東宮を動揺させようと常に考えていた。
  • 皇甫惟明はかつて忠王(今の太子)の友であり、吐蕃からの凱旋時に、林甫の専横に不満を抱いて玄宗にそれとなく林甫排除を勧めた。
  • 林甫は楊慎矜に密かに監視させ、正月望夜に太子が出遊して韋堅と会い、さらに韋堅が景龍観で皇甫惟明と会っていたことをつかんだ。
  • 慎矜は、韋堅のような外戚が辺将と親しくするのは不穏だと報告し、林甫はこれを利用して、韋堅と惟明が太子擁立の陰謀を企てたと奏上した。
  • 韋堅と皇甫惟明は獄に下され、慎矜・王鉷・吉温が取り調べにあたった。
  • 玄宗も疑いはしたが、明白な罪状は出せず、癸酉、韋堅は縉雲太守、皇甫惟明は播川太守に左遷されるにとどまった。
  • ただし別に百官を戒める制書を出し、警告の意味を持たせた。

王忠嗣の権勢極まる

  • この後任として、王忠嗣が河西・隴右節度使を兼ね、なお朔方・河東節度事も知ることになった。
  • 忠嗣は、従来高値で胡馬を買い上げて遊牧勢力の馬資源を減らし、そのぶん唐軍の騎兵力を高めていた。
  • さらに新任地にも朔方・河東の馬九千匹の移送を求め、諸軍を一層強化した。
  • 青海・積石では吐蕃に大勝し、墨離軍では吐谷渾を討って全部族を虜として帰った。
  • こうして天下の精兵と重鎮がその手中に集まった。

四月:奚・契丹への冊封

  • 奚の酋長娑固を昭信王、契丹の酋長楷洛を恭仁王に立てた。
  • また四季ごとに吉日を選んで天地九宮を祀ることを制度化した。

李適之罷相と陳希烈の入相

  • 韋堅らの左遷後、左相李適之は身の危険を感じ、自ら散地を願い出た。
  • 庚寅、太子少保に移されて政事から退いた。
  • その子李霅が盛大な饗応を催しても、誰一人客が来ないほど、朝野は李林甫を恐れていた。
  • 代わって門下侍郎・崇玄館大学士の陳希烈が同平章事となった。
  • 希烈は老荘・神仙・符瑞で玄宗に取り入る柔佞の人物で、政務はすべて林甫が決め、希烈はただ追認するだけだった。
  • しかも宰相の退庁時刻も早められ、軍国機務は私邸で処理されるようになった。

天変と章仇兼瓊の中央進出

  • 五月朔日に日食があった。
  • 章仇兼瓊は戸部尚書となった。これは楊氏一族が引き立てたためである。

流貶官への苛酷化

  • 七月、流罪・左遷の者が道中に逗留することが多いとして、以後は一日十駅以上を急行させる勅が出た。
  • このため流配された者の多くが途中で命を落とすようになった。

楊貴妃の専寵

  • 楊貴妃の寵愛は極まり、騎馬の際には高力士がみずから轡を取り鞭を渡した。
  • 服飾工房で専ら貴妃のために働く者だけで七百人に達し、中外の献上も競い合うほどだった。
  • 嶺南経略使張九章、広陵長史王翼は精巧な献上品で昇進し、世はこれを風潮として追った。
  • 民間には「男児を生んでも喜ぶな、女児を生んでも悲しむな、今こそ女が家門を支えるのを見よ」という歌が流行した。
  • 貴妃のためには毎年、生の荔支を嶺南から飛駅で運ばせ、長安に着いても色香味が変わらぬよう急送させた。

貴妃一時出宮と韋堅一党の大粛清

  • 貴妃は嫉妬深く玄宗に不遜であったため、一時兄楊銛の邸に返された。
  • その日、玄宗は食も進まず、近侍たちにまで鞭打ちを加えるほど不機嫌だった。
  • 高力士が機嫌をうかがって、宮中の貴妃用物資をことごとく送るようにし、夜には帰宮を願い出て許された。
  • 以後、貴妃の恩遇はさらに増し、後宮でこれに対抗できる者はいなくなった。
  • 将作少匠韋蘭・兵部員外郎韋芝が兄韋堅の冤罪を訴え、太子の名も引いたため、玄宗はかえって怒った。
  • 太子は恐れて、妃との離縁を願い、法による処置を妨げぬ旨を上表した。
  • 丙子、韋堅は江夏別駕へ再び左遷され、韋蘭・韋芝は嶺南へ流された。
  • 玄宗は太子の孝慎を知っていたため、怒りは東宮には及ばなかったが、李林甫はこれを機に「韋堅と李適之らの朋党」を一掃した。
  • 数日のうちに、韋堅は臨封へ長流、李適之は宜春太守、韋斌・薛王琄・裴寛・李斉物らも相次いで左遷され、韋堅の親党数十人が連座した。

冬:杜有鄰獄と東宮牽制

  • 十月、玄宗は華清宮へ行幸した。
  • 太子の良娣である杜有鄰の娘の姉は、左驍衛兵曹柳勣の妻であった。
  • 柳勣は粗放で功名心が強く、名士李邕・王曾らと交友していたが、妻方と不和で、これを陥れようとして「杜有鄰が図讖を唱え、東宮と結んで天子を指斥している」と讒言した。
  • 李林甫は吉温・御史らに命じて取り調べさせ、柳勣自身もその首謀でありながら、王曾らも巻き添えにした。
  • 十二月、杜有鄰・柳勣・王曾らは杖殺され、屍は大理寺に積まれた。
  • 妻子は遠方へ流され、中外は震え上がった。
  • 嗣虢王巨も李邕の子であることから義陽司馬に左遷された。
  • また太子は良娣を庶人に落とした。
  • 王琚も贓罪で江華司馬に左遷された。李林甫は彼や李邕のような老臣・才士が意気盛んなことを嫌って、機会をとらえて排除したのである。