資治通鑑唐紀三十一 玄宗 四載 四年 745年

正月:祥瑞談義

  • 玄宗は、甲子の日に自ら壇を設けて民のために祈福したところ、黄紙が天に飛び上がり、「聖寿延長」と空中から声がしたと宰相に語った。
  • さらに嵩山で鍛えた薬にも夜を通じて神秘的な守護の声があったと話し、太子・諸王・宰相はそろって賀表を上げた。
  • 君主の妄信と臣下の追従が目立つ出来事である。

回紇の覇権確立

  • 回紇の懐仁可汗が突厥の白眉可汗を討って殺し、その首を京師に送った。
  • 毗伽可敦も部衆を率いて唐に降り、北辺では烽火の警報もなくなった。
  • 回紇は東は室韋、西は金山、南は大漠に及ぶ広大な地を得て、突厥旧地をほぼ全有した。
  • 懐仁可汗が死ぬと、子の磨延啜が立って葛勒可汗を称した。

王忠嗣の兼任と辺防方針

  • 二月、王忠嗣は朔方節度使に加えて河東節度使も兼ねた。
  • 忠嗣は勇敢さで知られたが、実際の施政では慎重で、平時の将は兵を養い国を疲弊させて功名を求めてはならないと考えていた。
  • 漆弓を携えながらも使わずに示すことで、好戦を戒めた。
  • 敵情を諜報で探って勝てる時だけ戦ったため、出兵すれば必ず成果を挙げた。
  • 朔方から雲中に至る数千里の要害に城堡を築き、辺人からは張仁愿以来の名将と称えられた。

三月:公主の婚姻政策

  • 外孫の独孤氏を静楽公主として契丹王李懐節に嫁がせた。
  • 甥筋の楊氏を宜芳公主として奚王李延寵に嫁がせた。

裴敦復失脚

  • 裴敦復は嶺南五府経略使に任じられたが、赴任を遅らせた罪で五月に淄川太守へ左遷された。
  • これは海賊平定の功でなお恩遇が残っていたためだが、実際には李林甫が失脚させたものである。

吉温・羅希奭の台頭

  • 李適之は李林甫と権勢を争って不仲となり、その部下の張垍も林甫に憎まれた。
  • 林甫は兵部の選曹に不正があるとして摘発し、多数の吏を収監したが、通常の取り調べでは自白が得られなかった。
  • 京兆尹蕭炅が法曹の吉温に取り調べを命じると、温は外で重囚を激しく責め立てる声を兵部吏に聞かせ、恐怖で次々に自白させた。
  • しかも体には拷問の痕を残さなかったため、短時間で獄が成立した。
  • 吉温はもとは新豊丞で、薛嶷に推薦されたが、玄宗には「善人ではない」と見抜かれていた。
  • その後、蕭炅との因縁を経て京兆府法曹に取り立てられ、さらに林甫に見出された。
  • 林甫はまた羅希奭も御史台主簿から殿中侍御史へ引き上げた。
  • 二人は林甫の意のままに獄を作り、誰も逃れられないことから、「羅鉗吉網」と呼ばれた。

八月:楊貴妃の冊立

  • 八月、韋昭訓の娘を寿王妃に冊し、ついで楊太真を貴妃に立てた。
  • その父楊玄琰には兵部尚書を贈り、叔父楊玄珪を光禄卿、従兄楊銛を殿中少監、楊錡を駙馬都尉とした。
  • 武惠妃の娘は太華公主とされ、楊錡がこれに尚した。
  • 貴妃の三人の姉にも京師に邸宅が与えられ、楊氏一門の栄華は赫々たるものとなった。

楊釗の登場

  • 楊釗は貴妃の従祖兄で、学問も徳行も乏しく一族から軽んじられていた。
  • 蜀で小官を務めていたが、章仇兼瓊のもとで鮮于仲通の推挙を受け、京師に赴く機会を得た。
  • 兼瓊は内援を求めて楊家との結びつきを望み、楊釗に大量の蜀の珍貨を持たせて長安に送った。
  • 釗はこれを貴妃の姉妹に配って歓心を買い、賭博に巧みであることも利用して玄宗に近づいた。
  • こうして禁中出入りを許され、金吾兵曹参軍となった。

韋堅の失脚

  • 九月、韋堅は刑部尚書に転じ、その諸使職は解かれ、江淮租庸転運は楊慎矜に引き継がれた。
  • 韋堅は姜皎の娘婿で、当初李林甫と近かったが、漕運成功で入相の望みを抱き、李適之とも親しくなったため、林甫に嫌われた。
  • 名目上は栄転でも、実際には権限を奪われた形だった。

安禄山の対外戦功と財政悪化

  • 安禄山は辺功によって寵を求め、しばしば奚・契丹を侵掠したため、奚・契丹はそれぞれ唐の公主を殺して反乱した。
  • 祿山はこれを討って破った。
  • 一方、皇甫惟明は石堡城で吐蕃に敗れ、副将の褚誗が戦死した。
  • 安禄山は、北平郡において李靖・李勣の神が夢に現れたので廟を立てた、またその廟の梁から芝が生えたと奏し、奇瑞で玄宗の歓心を買った。
  • 戸部郎中王鉷は戸口色役使として、復除の名目で別途の費用を徴発し、また本郡の特産購入を強いて百姓の負担を増した。
  • さらに、辺兵の名簿に残った死亡者や失踪者についても、有籍無人を理由に租庸を徴収し、時に三十年分に及ぶこともあった。
  • 王鉷は玄宗が表向きの租庸に手をつけたくない意向を見抜き、歳貢以外の巨額資金を内庫に蓄えて宮中の宴賜に供したため、「国を富ませる能臣」として寵遇された。
  • しかしその実態は中外の怨嗟を招く苛斂であった。
  • 丙子、王鉷は御史中丞・京畿採訪使に昇進した。

年末:楊釗の昇進

  • 楊釗は禁中の宴席で博奕関係の帳簿を緻密に扱い、玄宗から「よい度支郎だ」と褒められた。
  • 諸楊がこの言葉をたびたび口実にし、さらに王鉷も後押ししたため、釗は判官に任じられた。
  • 十二月、玄宗は温泉宮から還御した。