資治通鑑唐紀二十九 玄宗至道大聖大明孝皇帝 開元 二十一年 733年

正月 肅明皇后の祔廟と勃海討伐準備

  • 正月乙巳、肅明皇后を太廟に祔し、儀坤廟を廃した。
  • 丁巳、玄宗は驪山温泉へ行幸した。
  • 玄宗は、かつて渤海から亡命していた大門芸を幽州へ遣わし、兵を発して渤海王武芸を討とうとした。
  • 庚申、太僕員外卿の金思蘭を新羅へ派遣して、その南境を攻撃させた。だが大雪が一丈余り積もって山道は塞がれ、兵卒の死者が続出し、戦果なく帰還した。
  • 武芸は門芸をなお怨み、刺客をひそかに天津橋南で襲わせたが、門芸は死ななかった。玄宗は河南府に命じて賊党を捜索し、残らず殺させた。

吐蕃との境界碑

  • 二月丁酉、金城公主が赤嶺に唐と吐蕃の境界を画する碑を立てたいと請い、許された。

裴光庭の死と韓休の登用

  • 三月乙巳、侍中の裴光庭が死去した。
  • 太常博士の孫琬は、裴光庭が循資格を用いて人材登用の励みを失わせたとして、「克」の諡を提案したが、子の裴稹が訴えたため、玄宗は「忠献」を賜った。
  • 玄宗が蕭嵩に後任を問うと、蕭嵩は親しい王丘を推そうとしたが、王丘は固辞して右丞の韓休を薦めた。
  • 甲寅、韓休を黄門侍郎・同平章事に任じた。
  • 韓休は剛直で名利におもねらず、時望にかなう宰相であった。蕭嵩はおとなしく扱いやすい人物と思って推したが、実際には公正で阿らず、やがて蕭嵩は彼を憎むようになった。
  • 宋璟は、韓休がこれほどの人物だったとは思わなかったと嘆じた。
  • 玄宗は宮中の宴楽や遊猟で少しでも行き過ぎがあると、「韓休は知っているか」と左右に問うほどで、言い終わらぬうちに諫疏が届くこともあった。
  • あるとき鏡を見て黙り込んでいた玄宗に、近臣が「韓休が宰相になってから陛下はずいぶん痩せました。なぜ追い出さないのですか」と言うと、玄宗は「私の容貌は痩せても天下は太る。蕭嵩は私の意にいつも従ったので、退いてからも眠りが安らかでなかった。韓休は強く争うので、退いた後こそ安心して眠れる。韓休を用いるのは社稷のためであって、自分のためではない」と答えた。

供奉侏儒・黄㼐の処刑

  • 供奉の小人に黄㼐という者がいて、機敏で帝の気に入られ、時には帝がその背を几のようにして移動することもあった。
  • ある日、黄㼐が遅れて参内したので理由を問うと、盗賊を捕える役人と道を争い、その役人を馬から突き落としたため遅れたと答えた。
  • 玄宗は「外から上奏が来ないなら心配ない」と言ったが、ほどなく京兆から報告が届いたので、ただちに黄㼐を引き出して有司に付し、杖殺した。

閏月 郭英傑戦死

  • 閏月癸酉、幽州道副総管の郭英傑が都山で契丹と戦い、敗れて戦死した。
  • 当時、節度使の薛楚玉は郭英傑に精騎一万と降った奚兵を率いさせ、榆関の外に駐屯させていた。
  • 可突干は突厥兵を引き入れて決戦し、奚軍は二心を抱いて散り散りに逃げたため、唐軍は不利となった。
  • 郭英傑は戦死したが、残兵六千余はなおも戦い続け、敵がその首級を示しても降らず、ついには全員が殺された。
  • 薛楚玉は薛訥の弟である。

選挙制度の部分修正

  • 夏六月癸亥、今後、選人に才業・操行がある場合は、吏部が臨時に抜擢してよく、流外からの奏用については門下省の審査を経なくてもよいとした。
  • ただし、実務担当者たちは依然として循資格の運用が自分たちに都合よかったため、旧制をそのまま踏襲した。
  • このころ、官は三師以下で一万七千六百八十六員、吏は佐史以上で五万七千四百十六員に達し、出仕の道はきわめて多岐にわたっていた。

日食と諸王封建

  • 秋七月乙丑朔、日食があった。
  • 九月壬午、皇子の沔を信王、泚を義王、漼を陳王、澄を豊王、潓を恒王、漎を梁王、滔を汴王に封じた。

裴耀卿の漕運改革提案

  • 関中では長雨で穀価が高騰したため、玄宗は東都への行幸を考え、京兆尹の裴耀卿に諮問した。
  • 裴耀卿は、関中は帝業の本拠であり、都そのものを移すべきではないが、土地が狭く穀物が少ないので、車駕が東都へ行幸して人口圧を逃がす必要があるだけだと述べた。
  • そして、貞観・永徽のころは関東から一、二十万石を漕送すれば足りたが、いまは用度が増え、従来の数倍送ってもなお不足するため、天子がたびたび寒暑を冒して西方の民を救済しなければならないのだと説いた。
  • そのうえで、司農寺の租米をすべて東都へ集め、そこから順次河洛経由で関中へ転送すること、河口に倉を置いて江淮の船はそこまでで荷下ろしさせ、官が別に雇った船で河・洛へ送ること、三門の東西にも倉を設け、水勢の悪い時は貯蔵し、良い時に下し、必要なら山路を切り開いて車で迂回させることを提案した。
  • 河渭流域には漢・隋以来の古い倉も残っており、これを修復するのは難しくないと述べた。
  • 玄宗は深くこれに同意した。

年末の宰相交代

  • 冬十月庚戌、玄宗は驪山温泉へ行幸し、己未に還宮した。
  • 戊子、左丞相の宋璟が致仕して東都へ帰った。
  • 韓休はしばしば蕭嵩と玄宗の前で争論し、面と向かって蕭嵩の短所を指摘したため、玄宗はやや不快となった。
  • 蕭嵩はこれに乗じて辞職を願い出て、厚恩を受けて宰相となり富貴の極みにある今こそ、陛下に飽かれぬうちに退くのがよいのだと泣いて訴えた。
  • 玄宗は動かされ、「ひとまず帰れ、考えよう」と慰めた。
  • 丁巳、蕭嵩を罷免して左丞相とし、韓休も工部尚書に罷めた。
  • かわって京兆尹の裴耀卿と、母喪中から起復されていた前中書侍郎の張九齢を、それぞれ黄門侍郎・中書侍郎として同平章事に任じた。

十五道と采訪使

  • この年、天下を京畿・都畿・関内・河南・河東・河北・隴右・山南東道・山南西道・剣南・淮南・江南東道・江南西道・黔中・嶺南の十五道に分け、それぞれに采訪使を置いた。
  • 六条によって非法を検察し、両畿は御史中丞が、その他は有能な刺史が兼ねた。
  • 官職の異動があっても采訪使の任は自動的には廃せず、旧制を改変する場合のみ奏可を必要とし、それ以外は便宜に応じて先に処置して後から報告することを認めた。

楊慎矜兄弟の登用

  • 太府卿の楊崇礼は楊政道の子で、二十年以上にわたって太府の実務にすぐれ、財貨管理は精緻で、毎年の出納点検や不正摘発、節用・交易によって数百万緡を浮かせていた。
  • その年、九十余歳で戸部尚書として致仕したため、玄宗が宰相に、子のうち誰が父を継げるか問うた。
  • 宰相は、慎余・慎矜・慎名はいずれも廉潔で勤勉、有能だが、慎矜がとくに優れると答えた。
  • 玄宗は楊慎矜を汝陽令から監察御史に抜擢し、太府出納を掌らせ、楊慎名には監察御史を仮授して含嘉倉の出納を見させた。いずれもよく職に称った。
  • 楊慎矜は、諸州から納める布帛に水浸しや破損が多く、その補填のため本州から折估銭を徴収して軽貨を買い足していると奏し、これにより課徴はさらに煩雑となった。