資治通鑑唐紀 玄宗至道大聖大明孝皇帝 開元 二十二年 674年
正月 西京から東都へ移る
- 春正月、玄宗は西京を発って東都に到着した。
- 張九齡が韶州から召されて拝謁し、父母の喪に服し終えたいと願ったが、許されなかった。
二月 秦州の地震と張果の入朝
- 秦州で大きな地震が連続して起こり、公私の建物のほとんどが倒壊し、役人や民衆あわせて四千人以上が圧死した。朝廷は左丞相の蕭嵩に救済を命じた。
- 方士の張果は、自ら仙術を知ると称し、堯の時代の侍中で今に至るまで生きていると語って人々を惑わせていた。則天武后以来たびたび召されたが応じず、相州刺史の韋濟の推挙で、今回は中書舍人の徐嶠が璽書を持って迎えに行き、東都へ来朝した。玄宗は輿で宮中へ入らせ、厚遇した。
三月 私鋳銭の是非
- 張九齡が銭貨の私鋳を禁じないよう提案したため、玄宗は百官に議論させた。
- 裴耀卿らは、私鋳を認めれば農民が利を求めて農業を捨て、粗悪な銭がいっそう増えると反対した。
- 秘書監の崔沔は、官が銅の課税や労役の換算を整えれば官営鋳造で足り、私鋳は利益が出なくなって自然に止むと主張した。
- 右監門録事參軍の劉秩は、私鋳を許せば貧者は富者に使役され、富者だけがさらに富み、漢の呉王濞のような危険を生むと論じた。玄宗は結局、私鋳容認をやめた。
四月 李林甫の伸長
- 朔方節度使の信安王禕が、関内道採訪処置使を兼ね、涇原など十二州もあわせて管轄することになった。
- 吏部侍郎の李林甫は、柔和に見えて狡猾で、宦官や妃嬪の一族と深く結んでいたため、玄宗の動静を常に把握し、奏上がたびたび帝意にかなって寵愛を受けた。
- この頃、武惠妃の寵愛は後宮を圧しており、その子の寿王を太子に立てたい意向があった。李林甫は宦官を通じて惠妃に取り入り、寿王を守り立てると約したため、惠妃も内助し、李林甫は黄門侍郎に抜擢された。
五月 宰相人事と農事の示範
- 裴耀卿が侍中、張九齡が中書令、李林甫が礼部尚書・同中書門下三品となった。
- 玄宗は苑中に麦を自ら植え、太子以下を率いて刈り取りに行き、宗廟への供えは自分で怠らず、また皇子たちに農事の苦労を知らせたいのだと語った。
- 侍臣たちにも配り、田の実りが思わしくないので自分で育てて見届けたのだと述べた。
六月 張守珪の契丹撃破
- 幽州節度使の張守珪が契丹を大破し、使者を送って勝利を報告した。
七月 薛王業の死と裴耀卿の転運改革
- 薛王業が病没すると、玄宗は深く悲しみ、その悲しみは容貌にまで現れた。
- 裴耀卿は江淮・河南の転運使となり、河口に輸送拠点を設けた。
八月 新たな倉と水運整備
- 輸送場の東に河陰倉、西に柏崖倉を置き、三門の東に集津倉、西に塩倉を置いた。
- さらに三門の険を避けるため、輸送路を開削・整備した。
- これまで江淮の米は東都の含嘉倉まで舟で運んだ後、さらに三百里を陸送して陝へ送っており、輸送費が重かった。裴耀卿は河陰倉までを江淮の船で運び、そこから河舟で含嘉倉・太原倉へ回し、さらに渭水から関中に入れる方式に改めた。
- この制度で三年間に七百万斛の米を運び、車の雇用費三十万緡を節約した。彼はその節減分を自らの功績として誇らず、買い入れ用資金に回すよう奏請した。
張果の帰山と玄宗の仙道傾斜
- 張果は恒山へ帰ることを強く願い、玄宗は銀青光禄大夫・通玄先生の号を与え、厚く賜って帰した。
- のちに死んだ際、好事家たちは「尸解した」と奏し、玄宗はこれ以後、神仙の道をやや信じるようになった。
十二月 日食と契丹首領の誅殺
- 冬十二月朔、日食が起こった。
- 幽州節度使の張守珪は、契丹王の屈烈と可突干を斬って首を送った。
- 可突干は長年辺境の患いで、趙含章・薛楚玉らも討てなかったが、張守珪は着任後たびたび撃破していた。
- 可突干は窮して偽りの降伏を申し出た。張守珪が管記の王悔を派遣して慰撫させたところ、王悔は相手に真意がなく、密かに突厥を呼んで自分を殺し再叛しようとしていることを見抜いた。
- 王悔は牙官の李過折に働きかけ、李過折は夜に兵を起こして屈烈・可突干を斬り、その党与を尽く誅した。残党は降伏した。
- 張守珪は紫蒙川に出兵して大閲兵を行い、周辺を鎮撫し、二人の首を天津の南にさらした。
突厥の内情と京城の病坊
- 突厥では毗伽可汗が大臣の梅録啜に毒を盛られたが、死ぬ前にこれを討ち、その一族を滅ぼした。
- 毗伽可汗の死後、子の伊然可汗が立ち、まもなく没し、弟の登利可汗が立った。庚戌の日に唐へ訃報が届いた。
- 京城の乞食を禁じ、病坊を設けて食糧を支給した。