資治通鑑唐紀 玄宗至道大聖大明孝皇帝 開元 二十三年 675年
正月 契丹への恩賞と籍田
- 契丹の知兵馬中郎・李過折が勝利報告のため来朝し、北平王・検校松漠州都督に任じられた。
- 乙亥、玄宗は籍田を耕した。本来の規定では天子は三推で止めるところ、この年は五十歩余り耕し、畝の尽きるまで続けた。公卿以下も皆、担当区画を耕し終えた。
- 天下に大赦し、東都で三日間の大宴を開いた。
都城の喧噪と厳安之
- 五鳳楼の宴では見物人が押し合い、音楽も演奏できず、金吾の白梃でも止められなかった。
- 高力士の推挙で河南丞の厳安之が派遣され、手板で地を囲って「ここを越えれば死罪」と示すと、群衆は三日間これを犯さなかった。
各地の楽舞競演と元徳秀
- 三百里以内の刺史・県令に、それぞれ所部の音楽を率いて楼下に集め、優劣を競わせた。
- 懐州刺史は多くの楽工を車に満載し、衣装も牛車も華美に飾った。
- これに対し、魯山令の元徳秀は、数人の楽工に「于蒍」の歌を歌わせるだけだった。玄宗は、懐州の民はこの奢りで苦しめられているに違いないとして、その刺史を散官に左遷した。
張守珪を宰相にしようとする議
- 玄宗は張守珪の武功を賞して宰相にしたいと考えた。
- 張九齡は、宰相は天下を治める職であり、武功の賞として与えるべき官ではないと強く諫めた。さらに、今それを与えれば、将来さらに大功を立てた時に何をもって報いるのかと述べた。
- 玄宗は思いとどまった。
二月 張守珪の来朝
- 張守珪が東都へ来て戦勝を献じ、右羽林大将軍・兼御史大夫となった。二人の子にも官が与えられ、賜与は厚かった。
三月 張審素の子らの復讐
- かつて張審素を殺した楊汪は、その後、楊萬頃と改名していた。張審素の二子、瑝・琇は幼くして嶺南に流され、のち逃げ帰って復讐の機会を狙っていた。
- 丁卯、二人は都城で楊萬頃を殺し、斧鉞の下で父の無実を訴えたうえ、さらに父を陥れた者を江外で殺そうとして汜水で捕らえられた。
- 世論には、父が無実で殺され、幼くして孝烈を尽くしたのだから赦してよいという声が多く、張九齡も助命を望んだ。
- だが裴耀卿・李林甫は法の破壊になるとし、玄宗も、孝心は認めるが殺人を赦せば際限ない復讐を招くとして、杖殺を命じた。
- 民衆は深く哀れみ、哀誄を街に掲げ、金を集めて北邙に葬ったうえ、楊萬頃の家が掘り返せぬよう疑塚をいくつも作った。
公主の実封見直し
- 唐初は公主の実封は三百戸までだったが、中宗期には太平公主が五千戸に達した。開元以降は皇妹は千戸、皇女はその半分とされ、駙馬も職事官ではない名誉職に留められていた。
- 左右から待遇が薄いとの声もあったが、玄宗は、租税は民のものであり、戦士の賞も大きくないのに、功のない皇女が多くの戸数を受けるべきではない、倹約を知るためだと答えた。
七月 咸宜公主の婚嫁
- 咸宜公主が楊洄に降嫁するにあたり、初めて実封が千戸に増やされた。
- 公主は武惠妃の娘であったため、これにあわせて他の公主もみな千戸に増封された。
十月・閏月 突騎施の侵攻と日食
- 十月、突騎施が北庭と安西の撥換城に侵入した。
- 閏月朔、日食があった。
十二月 寿王妃冊立
- 故蜀州司戸の楊玄琰の娘が寿王妃となった。彼女はのちの楊貴妃である。
- 楊玄琰は楊汪の曾孫だった。
契丹王過折の死
- この年、契丹王となっていた過折は臣下の湼禮に殺され、その諸子も殺害されたが、一子の刺乾だけは安東に逃れて助かった。
- 湼禮は、過折が刑罰を残酷にして衆心が離れたため殺したのだと奏上した。
- 玄宗は罪を赦し、湼禮を松漠都督に任じたが、あわせて、主君に対して無義であり、今後自分も同じ目に遭うだろうと責める書を送った。
- やがて突厥が東へ兵を出して奚・契丹を侵したが、湼禮は奚王李帰国とともにこれを撃破した。