資治通鑑唐紀二十九 玄宗至道大聖大明孝皇帝 開元 二十年 732年

正月二月 契丹征討

  • 正月乙卯、信安王李禕を河東河北行軍副大総管とし、奚・契丹討伐を命じた。壬申には戸部侍郎の裴耀卿を副総管に任じた。
  • 二月癸酉朔、日食があった。
  • 玄宗は、武后の時代に忠節を尽くした安金蔵を思い出し、三月に代国公の爵を授け、東岳・西岳に碑を建ててその忠功を刻ませた。安金蔵はついに長寿を全うした。
  • 信安王李禕は裴耀卿、幽州節度使の趙含章らと分道して契丹を攻めた。
  • 趙含章が敵に遭うと、敵は風を見て退いたが、平盧先鋒将の烏承玼は、これは恐れて逃げたのではなく誘いであるから、動かず様子を見るべきだと諫めた。
  • 趙含章は従わず白山で戦って大敗したが、烏承玼が別動隊をもって右から撃ち、敵を破った。
  • 己巳、李禕らは奚・契丹を大破し、捕虜・斬首は甚だ多かった。可突干は側近を率いて遠く逃亡し、残党は山谷に潜んだ。
  • 奚の酋長・李詩瑣高が五千余帳を率いて降り、帰義王に封じられ、帰義州都督となった。部落は幽州境内へ移された。

宴遊と恩賞

  • 夏四月乙亥、玄宗は上陽宮東洲で百官を宴し、酔った者には布団や褥を賜って肩輿で帰らせ、その列は道に連なった。
  • 六月丁丑、信安王李禕に開府儀同三司を加えた。
  • 玄宗は裴耀卿に絹二十万匹を持たせ、功のあった奚の官人たちへ分給させた。
  • 裴耀卿は、戎狄は貪欲であり、重い財貨を持ってその地に入る以上は警戒が不可欠だとして、前もって分道進発し、一日で支給を完了してすぐ帰還した。
  • 実際、突厥や室韋は隘路に兵を伏せて略奪を狙ったが、裴耀卿はすでに戻った後であった。

趙含章の処断

  • 趙含章は巨万の贓汚で朝堂において杖を受け、瀼州へ流される途中で死んだ。

后土祭と五礼完成

  • 秋七月、蕭嵩は、后土を祀って以来しばしば豊年であるから、西京へ帰る際に報賽すべきだと奏し、玄宗は従った。
  • 裴光庭と蕭嵩に左右廂兵を分掌させた。
  • 八月辛未朔、日食があった。
  • 玄宗は以前に張説へ五礼の刊定を命じており、張説の死後は蕭嵩がこれを継いだ。起居舍人の王仲丘は、顕慶礼に従って祈谷・大雩・明堂の各祭に昊天上帝を祀ること、また上元の勅に従って父が存命でも母に斉衰三年とすることを請い、いずれも採用された。
  • 高祖を円丘・方丘に、太宗を雩祀と神州地祇に、睿宗を明堂に配した。
  • 九月乙巳、新礼が完成して奏上され、『開元礼』と号した。

渤海の登州襲撃

  • 勃海靺鞨王の武芸は、将の張文休に海賊を率いさせて登州を襲わせ、刺史の韋俊を殺させた。
  • 玄宗は右領軍将軍の葛福順に兵を発して討伐させた。

牛仙客の昇進

  • 壬子、河西節度使の牛仙客に六階進を加えた。
  • もとより蕭嵩は河西で軍政を牛仙客に委ね、その廉潔・勤勉・職務処理を高く評価してたびたび推薦しており、ついに蕭嵩の後任として河西節度使となっていた。

北都行幸と州郡再編

  • 冬十月壬午、玄宗は東都を発し、辛卯に潞州へ、辛丑に北都へ至った。
  • 十一月庚申、汾陰で后土を祀り、天下に赦を行った。
  • 十二月辛未、西京へ帰還した。
  • この年、幽州節度使兼河北采訪処置使の管轄に、衛・相・洺・貝・冀・魏・深・趙・恒・定・邢・徳・博・棣・営・鄚の十六州と安東都護府を増領させた。
  • また、戸数は七百八十六万一千二百三十六戸、人口は四千五百四十三万一千二百六十五口となった。