資治通鑑唐紀二十八 玄宗至道大聖大明孝皇帝 開元 十二年 724年

春三月:杜暹を安西へ

  • 甲子、杜暹を起用して安西副大都護・磧西節度等使とした。前述の清廉ぶりが高く評価されたためである。

春夏:沢王上金の後継問題

  • 神龍初年に沢王上金の官爵は回復され、その庶子義珣が嶺南から探し出されて故封を継いでいた。
  • ところが許王素節の子瓘は、その爵邑を利し、弟璆とともに義珣は上金の子ではないと訴えて再び嶺南へ流し、璆が嗣沢王となっていた。
  • ここに至り、玉真公主が義珣こそ真の上金の子であり、瓘兄弟に排斥されたのだと奏した。
  • 夏四月庚子、義珣を再び嗣沢王とし、璆の爵を削り、瓘を鄂州別駕に左遷した。
  • 壬寅、宗室の傍系から継いで嗣王となっている者は、本宗へ戻すよう命じた。

四月:天文測定

  • 壬子、太史監南宮説らに、河南・河北の平地で日晷と北極星の高度を測らせた。
  • 陽城では夏至の晷長一尺四寸八分弱、北極高度三十四度十分の四。浚儀の岳台では晷長一尺五寸微強、北極高度三十四度八分。
  • 南は朗州で晷長七寸七分、北極高度二十九度半。北は蔚州で晷長二尺二寸九分、北極高度四十度。
  • さらに交州では八月の海上で南望すると、老人星の下に古来名のない星々がきらめき、南極から二十度以上の星が見えることが確認された。

五月:按察使の停止

  • 丁亥、諸道按察使を停止した。

六月:逃戸自首の再許可、宇文融を勧農使に

  • 壬辰、逃戸の自首を再び許し、所在の閑田を開墾させ、状況に応じて租税だけを取り、差科・徭役は課さず、租庸もすべて免除するよう定めた。
  • 宇文融を勧農使として州県を巡行させ、役賦の再編を吏民と協議させた。

六月:有力官人を刺史に出す

  • 山東に旱害があったため、台閣の名臣で補うとして、壬午、黄門侍郎王丘・中書侍郎崔沔・礼部侍郎知制誥韓休ら五人を地方刺史に出した。
  • 王丘は王同皎の一族、韓休は韓大敏の孫である。
  • もとは張説が崔沔を中書侍郎に引き立てたが、崔沔は、侍郎は令の副であり、ただ署名するだけでなく意見を述べるべきだとして張説としばしば異論を唱えた。張説はこれを快く思わず、今回の外任につながった。

秋七月:突厥求婚、溪州蛮平定

  • 突厥可汗が臣の哥解頡利発を派遣し、和婚を求めた。
  • 溪州の蛮酋覃行璋が反乱したため、監門衛大将軍楊思勗を黔中道招討使として派遣した。
  • 癸亥、楊思勗は覃行璋を生け捕りにし、三万級を斬って帰還した。功により輔国大将軍に進み、俸禄・防閤をその品秩どおりに受けるようになった。
  • 覃行璋は赦され、洵水府の別将に任じられたとみられる。

夏秋:王皇后の廃位

  • 姜皎の失脚以後、王皇后はますます不安を深めたが、下に恩があったため、彼女をそしる者は出なかった。
  • それでも皇后の兄王守一は、皇后に子がないため、僧明悟に南北斗を祭らせ、霹靂木に天地の字と皇帝の名を書いて合わせ、佩びれば子が生まれて則天武后のようになれると祈らせた。
  • これが発覚し、己卯、王皇后は庶人に落とされ別室に移された。王守一は潭州別駕に左遷され、途中で自殺を命じられた。
  • 戸部尚書張嘉貞も王守一と交わっていた罪で台州刺史に左遷された。

八月:突厥使節の礼不足、宇文融の権勢

  • 丙申、突厥の哥解頡利発が帰国したが、その使節の礼数が軽く整っていなかったとして、和婚はなお許されなかった。
  • 己亥、宇文融を御史中丞とした。彼は駅伝で天下を巡り、大小の事務を州県がまず勧農使に伺い、それから中書省に申すほどの権勢をふるった。
  • 玄宗は四夷経略のため財政を急いでいたので、州県は宇文融に迎合して虚数を多く上申し、客戸八十余万、田地も同程度とした。歳末には増収の銭数百万緡が宮中へ納められ、宇文融はますます寵を得た。
  • 議論のある政策だったため、百官を尚書省に集めて審議させたが、公卿以下は宇文融の勢いを恐れて異議を唱えられず、ただ戸部侍郎楊瑒だけが、客戸免税は居人に不利で、籍外田への課税は百姓を困らせ、得るものより失うものが大きいと反対した。
  • まもなく楊瑒は華州刺史に出された。
  • 壬寅、宋璟を西京留守とした。

冬十月:謝䫻国の報告と王皇后の死

  • 丁酉、謝䫻王特勒が使者を送って奏上し、前年五月に金城公主が箇失密へ使者を遣わし、もし吐蕃から逃れるなら兵を貸して拒ませたいとの意向を伝えてきたことを報告した。国王は判断を仰ぐため唐に知らせたという。玄宗はこれを認め、絹を与えて帰した。
  • 廃后王氏が死去した。後宮の者たちはなお彼女を慕い、玄宗も後悔の念を抱いた。

十一月・閏月:東都へ、封禅決定

  • 庚午、玄宗は東都へ向かい、戊寅に到着した。
  • 辛巳、司徒申王撝が死去し、恵荘太子を追贈・追諡された。
  • 群臣の封禅請願がたびたびあったため、閏月丁卯、明年十一月十日に泰山で大礼を行うことを決めた。
  • この封禅は張説が最初に強く提唱したもので、源乾曜は賛成せず、これが両者不和の一因となった。
  • この年、契丹王李鬱干が死去し、弟吐干が位を継いだ。