資治通鑑唐紀二十八 玄宗至道大聖大明孝皇帝 開元 十三年 725年

春二月:宇文融に戸部侍郎を兼ねさせる

  • 庚申、御史中丞宇文融に戸部侍郎を兼ねさせた。
  • 彼の得た客戸課税による銭は、各地の常平倉の資本に均等に回し、あわせて使司と州県に勧農社を作らせ、貧富が相互に助けて時を失わず耕作するようにした。

二月:長従宿衛を彍騎と改称、刺史人事

  • 乙亥、長従宿衛を「彍騎」と改め、十二衛に分属させて十二万人を六番に編成した。
  • 玄宗は自ら、声望ある官を選んで地方に出した。大理卿源光裕、尚書左丞楊承令、兵部侍郎寇泚ら十一人を刺史とし、宰相・諸王・諸司長官・台郎・御史らに洛水のほとりで盛大な餞を行わせ、御膳を賜い、太常に音楽を奏させ、内教坊の歌妓にも歌わせた。さらに自作の十韻詩を与えた。

三月:皇子の改名と諸王新封

  • 甲午、太子嗣謙を鴻と改名した。
  • 郯王嗣直を慶王潭、陜王嗣昇を忠王浚、鄫王嗣真を棣王洽、鄂王嗣初を溳王、鄄王嗣玄を栄王滉とそれぞれ改名・改封した。
  • あわせて新たに琚を光王、濰を儀王、澐を潁王、澤を永王、清を寿王、洄を延王、沭を盛王、溢を済王に立てた。

三月:酷吏の子孫処分、楊承令左遷

  • 丙申、御史大夫程行湛は、周朝の酷吏来俊臣ら二十三人は罪状が特に重いので子孫を禁錮すべきと奏し、傅遊芸ら四人はやや軽いので近任を許さない程度にすべきとし、認められた。
  • 汾州刺史楊承令は外任を望まず、不満げに「自分が地方に出されたのにはわけがある」と漏らしたため、玄宗は怒り、壬寅、睦州別駕に左遷した。

春夏:封禅準備、集賢殿の成立

  • 張説が封禅儀礼を起草して献上した。
  • 四月丙辰、玄宗は中書門下および礼官・学士と集仙殿で宴し、「仙」は虚しい議論にすぎず、自分が取るべきものではない、賢こそ治世の道具であるとして、殿名を「集賢殿」に改めた。
  • その書院官も、五品以上を学士、六品以下を直学士とし、張説を知院事、徐堅を副とした。
  • 玄宗は張説を「大学士」としようとしたが、張説は固辞した。

封禅と突厥対策

  • 張説は、皇帝の大規模東巡に際し、突厥が隙を突いて来寇することを懸念して兵備増強を議したが、兵部郎中裴光庭は、封禅は成功を告げる儀礼なのに異族を恐れていては盛徳を示せないと論じた。
  • その上で、突厥はたびたび和親を求めているのだから、大臣を招いて泰山封禅に随行させれば、突厥は喜んで応じ、他の諸蕃も競って来朝し、国威を示しつつ辺境も安定すると献策した。
  • 張説はその自分の思いつかなかった方策をよしとし、実行に移した。裴光庭は裴行儉の子である。

突厥使節との交渉

  • 中書直省袁振を鴻臚卿代理として突厥に派遣し、朝意を伝えさせた。
  • 小殺・闕特勒・暾欲谷らは帳中で酒宴を設け、袁振に対し、吐蕃や奚・契丹ですら公主を得ているのに、突厥だけが何度求婚しても許されないのはなぜか、来る公主が真の皇女かどうかは問題ではなく、ただ諸蕃に対して面目が立たないのだと不満を述べた。
  • 袁振は朝廷に奏聞すると約し、小殺は大臣阿史徳頡利発を入貢させ、封禅にも随従させた。

五月:洛陽の変

  • 庚寅、妖賊劉定高が衆を率いて夜、通洛門を犯したが、ことごとく捕らえられて斬られた。

秋九月:瑞祥奏上の禁止

  • 丙戌、玄宗は宰臣に対し、『春秋』は瑞祥を記さず、豊年だけを記すと述べ、今後州県は祥瑞の上奏をしてはならないと命じた。

冬十月:水運渾天成

  • 癸丑、水力で動く渾天儀を製作した。列宿を備え、水で輪を回して一昼夜で一周させ、別輪に日月をつけて天と逆向きに進ませ、その遅速も度に合うようにした。
  • 地平を示す木匱を作って儀器の半分を地下に置き、木人が刻ごとに鼓を打ち、辰ごとに鐘を鳴らす仕掛けを納めた。

十月・十一月:東都発、泰山封禅

  • 辛酉、車駕が東都を発し、百官・貴戚・四夷の酋長が従った。行在ごとに数十里の間、供奉の人馬が野を覆い、有司の運ぶ物資は数百里にわたって絶えなかった。
  • 十一月丙戌、泰山下に至った。玄宗は御馬で登り、従官は谷口に留め、宰相と祠官だけを伴って山上に登った。
  • 礼部侍郎賀知章に玉牒文をなぜ秘すのかと問うと、往古には仙道を求めて秘した例があると答えた。玄宗は自分は蒼生のために福を祈るだけだとして、玉牒を群臣に公開した。
  • 庚寅、山上で昊天上帝を祀り、群臣は山下の壇で五帝百神を祀った。辛卯には社首で皇地祇を祭った。
  • 壬辰、帳殿で朝覲を受け、天下に大赦し、泰山神を天斉王に封じ、礼秩を三公の上一等に加えた。

封禅後の賞と不満

  • 張説は中書・門下の吏や私縁の者を多く摂官として登山させ、礼後の恩賞で官階を進め、五品に超入させる者が多く、正規の百官には及ばなかった。
  • 中書舍人張九齢がこれを諫めても聞き入れられず、また扈従の士卒には勲級を加えるだけで賜物がなかったため、内外ともに張説への不満が高まった。

馬政の隆盛

  • 唐初、隋末の動乱で国馬は失われていたが、赤岸沢に残った三千頭ほどを陇右に移して育成し、貞観から麟徳にかけて七十万匹にまで増え、八坊四十八監に分置していた。
  • 垂拱以後に大きく減耗したが、玄宗即位初めに二十四万匹だった馬を、王毛仲が内外閑厩使として管理してから、今では四十三万匹に増やし、牛羊もそれに応じて多くなった。
  • 東封の際、色ごとに群分けした数万匹の馬が従い、雲錦のように見えたため、玄宗は王毛仲の功を嘉し、癸巳、開府儀同三司を加えた。

十一月末から十二月:孔子宅、良吏の賞、和婚拒否

  • 甲午、泰山を発し、庚申、孔子宅に行幸して祭った。
  • 還路、宋州で楼上の宴を行った際、刺史寇泚も列した。玄宗は張説に対し、これまで巡察使の報告を受けていたが、今回諸州を実見して、使臣の多くが実情を伝えていなかったと語った。
  • 懐州刺史王丘は通常の食料供給以外の献上をせず、魏州刺史崔沔は華美な供張を避け、済州刺史裴耀卿は簡潔な上表でひたすら戒めを述べ、民を煩わせれば封禅の意義を損なうと諫めていた。玄宗はその文を座右に置いて左右への戒めとした。
  • 寇泚も左右へ取り入るための酒食を整えず、かえって誉れを惜しまぬ節操があると認められ、王丘は尚書左丞、崔沔は散騎侍郎、裴耀卿は定州刺史に抜擢された。
  • 十二月乙巳、玄宗は東都に帰った。
  • 突厥の頡利発が辞去するにあたり、玄宗は厚く賜物を与えたが、ついに和婚は許さなかった。

王毛仲の婚礼と宋璟の剛直

  • 王毛仲が娘を嫁がせる際、玄宗が何が足りないかと問うと、毛仲は何でもそろっているが、客だけが足りないと答えた。
  • 玄宗が、張説や源乾曜なら呼べるだろうと言うと、毛仲は、招けないのは宋璟ただ一人だと認めた。
  • そこで玄宗は翌日、宰相たちに毛仲の婚礼へ行くよう命じた。多くの客は昼になっても宋璟の到着を待って箸をつけなかったが、宋璟はようやく来ると、まず西向きに帝命に応じて来たことだけを謝し、酒も杯を尽くさず、腹痛を称して早々に帰った。老いてなお剛直さは衰えなかった。

契丹の政変と吏部十銓

  • 以前から契丹王李吐干と可突干は再び互いに猜疑し、吐干は公主を携えて唐へ逃れ、帰国できなくなったため、遼陽王に改封され宿衛に留め置かれた。
  • 可突干は李尽忠の弟邵固を立てた。今回の東巡で邵固は行在に参じ、そのまま泰山まで従い、左羽林大将軍・静折軍経略大使に任じられた。
  • 一方、玄宗は吏部の選試に不公平があるのではないかと疑い、選期が迫る中、宇文融がひそかに吏部を十銓に分けて処理する案を奏した。
  • 甲戌、礼部尚書蘇頲ら十人に選事を掌らせ、試判の決定直前に禁中へ召して定め、吏部尚書・侍郎を関与させなかった。
  • 左庶子呉兢は、これは讒言を信じて有司を信用せず、万乗の君がみずから銓選に下ってしまうもので、漢の名相陳平・丙吉ですら細事に立ち入らなかったのに相応しくないとして、十銓をやめて有司に委ねるよう上表した。玄宗はすぐには従わなかったが、翌年には旧に復した。

歳末:物価・西域

  • この年、東都では米一斗十五銭、青州・斉州では米五銭、粟三銭という安値であった。
  • 于闐王尉遅眺がひそかに突厥や諸胡と結んで叛こうとしたが、安西副大都護杜暹が兵を発して捕えて斬り、別に王を立てた。