資治通鑑唐紀二十八 玄宗至道大聖大明孝皇帝 開元 十一年 723年
春正月:北巡開始、北都設置
- 己巳、車駕は東都から北巡に出た。
- 庚辰、潞州に至り、潞州には五年の租税免除を与えた。玄宗がかつて潞州別駕であったことによる。
- 辛卯、并州に着き、ここを北都とし、并州を太原府に改めて、刺史を尹とした。
二月:張嘉貞失脚、后土祭祀
- 戊申、晋州へ至った。
- 張説と張嘉貞は不和であったが、ちょうど張嘉貞の弟・金吾将軍張嘉祐の贓罪が発覚した。張説は嘉貞に対し、素服して罪を待つよう勧め、己酉、張嘉貞は幽州刺史に左遷された。
- 壬子、汾陰で后土を祭った。
- 乙卯、平遥令王同慶は、皇帝巡幸のための備蓄を広く集め、百姓を煩わせた罪で贑尉に左遷された。
- 癸亥、張説に中書令を兼ねさせた。
- 己巳、天兵軍・大武軍などを廃し、大同軍を中核に太原以北節度使を置き、太原・遼・石・嵐・汾・代・忻・朔・蔚・雲の十州を管轄させた。
三月:京師へ帰還
夏四月・五月:王晙再入相、麗正書院
- 甲子、吏部尚書王晙を兵部尚書・同中書門下三品として宰相に加えた。
- 五月己丑、王晙に朔方軍節度大使を兼ねさせ、河西・隴右・河東・河北の諸軍を巡察させた。
- 玄宗は麗正書院を設け、学問文章の士を集めた。秘書監徐堅、太常博士賀知章、監察御史趙冬曦らが修書・侍講にあたり、張説が総括した。
- 有司はその待遇を非常に厚くした。中書舍人陸堅は国益が少なく費用ばかりかかると廃止を唱えたが、張説は、無事の時代にこそ宮室や声色でなく典籍・礼文に力を入れるのが帝王の道だと論じ、玄宗も張説を重んじ、陸堅を軽んじた。
秋八月:逃人検括の緩和と祖先追尊
- 癸卯、先の逃人検括は煩擾を生むとして、今や天下も落ち着いたので、各人の居住を認め、州県が安集して生業に従わせるよう命じた。
- 戊申、宣皇帝を献祖、光皇帝を懿祖と追尊し、太廟九室に祔した。
九月:吐谷渾の帰順
- これまで吐蕃の強さを恐れて数年間これに付いていた吐谷渾が、壬申、部衆を率いて沙州に至り、唐へ降った。
- 河西節度使張敬忠がこれを受け入れて撫納した。
冬十月:温泉宮
- 丁酉、玄宗は驪山に赴き、温泉宮の大規模な造営を始めた。
- 甲寅、還宮した。
十一月:南郊と宿衛兵整備
- 礼儀使張説らは、高祖を昊天上帝に配し、従来の三祖並配の礼をやめるよう奏し、認められた。
- 戊寅、玄宗は南郊を祭り、天下に大赦を行った。
- 戊子、蕭嵩に命じて京兆・蒲・同・岐・華州の長官とともに府兵と白丁から十二万人を選び、「長従宿衛」として一年ごとに二番制で宮廷警衛に当たらせ、州県が雑役に使うことを禁じた。
十二月:鳳泉湯、王晙左遷、中書門下への改称
- 甲午、鳳泉湯に行幸し、戊申に帰った。
- 庚申、王晙は疎遠な親族を引き立てた罪で蘄州刺史に左遷された。
- この年、張説の奏請により、政事堂を「中書門下」と改称し、その後ろに吏房・枢機房・兵房・戸房・刑礼房の五房を置いて庶政を分掌させた。
- 監察御史杜暹は、突騎施で金を贈られても受け取らず、やむなく受けたと見せて幕下に埋め、国境を出てから返還させたので、その清廉さに異民族も驚いた。のち安西都護が欠けると、彼を推す声が上がったが、この時は母喪中であった。