正月 外戚への厳罰
- 正月、長孫昕と楊仙玉は里巷で御史大夫李傑を待ち伏せし、殴打した。
- 李傑は、自らの身体の損傷よりも、冠服を帯びた官人が辱められたことこそ国家の体面を汚すと上表した。
- 玄宗は激怒し、朝堂で杖殺して百官に謝し、李傑には「近親者であっても訓導できず衣冠を辱めた。極刑でもなお罪を償いきれない」と勅書で慰諭した。
正月 諸王改名と軍府名義の運用
- 丁亥、宋王成器は憲、申王成義は撝と改名した。これは昭成皇后の諡の字を避けたものである。
- 乙酉、郭虔瓘が奴石良才ら八人の戦功を理由に游撃将軍への任官を願ったが、盧懷慎らは奴僕に五品相当の官を与えるのは綱紀を乱すとして反対し、玄宗も退けた。
- 丙午、鄫王嗣真を安北大都護、陜王嗣昇を安西大都護に任じ、それぞれ諸蕃安撫大使としたが、実際には王は邸を出ず、張知運・郭虔瓘が副として実務を担った。諸王の遥領節度はここから始まる。
二月 温湯行幸・松州防衛・采訪使
- 丙辰、玄宗は驪山温湯に行幸した。
- 吐蕃が松州を囲んだため、丁卯に還宮し、辛未には倪若水を汴州刺史兼河南采訪使とした。
- 当時なお士大夫は外任を軽視しており、揚州采訪使から大理少卿に召された班景倩が大梁を通ると、倪若水はその去る塵を眺めて長く立ち尽くし、「仙に登るようなものだ」と部下に語った。
- 癸酉、松州都督孫仁獻は城下で吐蕃を襲い、大いに破った。
二月・五月 珍禽収集の停止と蝗害対応
- 玄宗は江南から鵁鶄・鸂鶒などの水鳥を取り寄せ、苑中で飼おうとしていた。使者はそのため各地で煩擾を起こした。
- 倪若水は、農桑が忙しい時期に遠方から鳥を捕らえ、梁肉で養って運ぶのでは、天下が人より鳥を重んじる天子だと思うと諫めた。玄宗は自ら手書きで謝し、帛四十段を与え、鳥を放した。
- その後、山東で蝗害が再び大きくなると、姚崇はまた捕殺を命じた。倪若水は蝗は天災であり、人力ではどうにもならないから修徳して禳うべきだとし、かつて劉聡が蝗を埋めても被害は増したと反論して御史の命を拒んだ。
- 姚崇は、劉聡は妖に勝てない偽主だが、今の聖朝は徳で妖を制するのだと牒文で説き、倪若水もついに従った。五月甲辰、朝廷は使者に州県の勤惰を詳しく調べさせた。結果として、連年の蝗害にもかかわらず大飢饉には至らなかった。
五月 県令試策
- 「今年の選叙はあまりに乱れている」との進言があり、玄宗は入謝に来た新任県令を宣政殿庭に集め、治民策を試した。
- 鄄城令韋済が最優秀となり、醴泉令に抜擢された。
- そのほかの多くは合格せず、十余人余りは官につけられたものの、四十五人は学び直しを命じられた。吏部侍郎盧従愿は豫州刺史、李朝隠は滑州刺史に左遷された。
- とはいえ盧従愿は六年にわたって選事をつかさどり、李朝隠とともに有能と評されていたため、密告の内容自体には疑問も残った。
- 当時、「吏部前有馬裴、後有盧李」といわれ、高宗期の馬載・裴行儉に並ぶ選官の名手として、盧従愿・李朝隠が評価されていた。
五月 南海交易・外来医薬への慎重論
- ある胡人が、海南には珠玉・翡翠・珍宝が多く、海上交易で利益を得られると奏し、さらに師子国に霊薬や名医の老女がいるから宮中に迎えるべきだと勧めた。
- 玄宗は監察御史楊範臣にその胡人と同行させようとしたが、範臣は、前に珠玉・錦繡を焼いたばかりなのに、今また珍宝を求めるのは矛盾であり、市舶で商人と利を争うのは王者の体ではないと諫めた。
- また、胡薬の効能は中国では判じがたく、まして胡人の老女を宮中に置くのは不適切だと述べた。玄宗は即座に自らの過ちを認めて中止した。
六月 睿宗崩御と黙啜の死
- 癸亥、上皇睿宗が百福殿で崩じた。
- 己巳、玄宗は娘の万安公主を女官とし、追福のために出家させた。
- 癸酉、抜曳固が突厥可汗黙啜の首を斬って献上した。黙啜は独楽水で抜曳固を大破して勝ちに乗じ、備えを怠って軽く帰るところを、敗残兵の頡質略に柳林から襲われて斬られた。
- 当時、突厥に使していた大武軍の子将郝霊荃がその首を受け取り、朝廷に持参した。玄宗は広街に首を懸けさせた。
- 抜曳固・回紇・同羅・霫・僕固の五部はみな来降し、大武軍北方に置かれた。
- 黙啜の子小可汗が立つと、骨咄禄の子闕特勒がこれを殺し、黙啜の子や側近をほぼ討ち尽くしたうえで、兄の黙棘連を立てた。これが毗伽可汗であり、国人は「小殺」とも呼んだ。毗伽は王位を闕特勒に譲ろうとしたが、闕特勒は受けず、左賢王となって兵権を握った。
七月 太廟の処置
- 壬辰、太常博士陳貞節・蘇献は、太廟七室が満ちているとして、中宗の神主を別廟に移し、睿宗の神主を太廟に祔するよう請い、認められた。
- また、昭成皇后を睿宗室に祔し、肅明皇后は儀坤廟に留めることとした。これは礼法上の問題を残す措置だった。
八月 契丹・奚の来附と吐蕃講和
- 乙巳、中宗廟を太廟西に立てた。
- 辛未、契丹の李失活、奚の李大酺が部衆を率いて来降した。玄宗は李失活を松漠郡王・松漠都督とし、契丹八部の酋長をそれぞれ刺史に任じた。薛泰に軍を督させて鎮撫した。
- 李大酺も饒楽郡王・饒楽都督とされた。李失活はかつて叛乱した李尽忠の従父弟にあたる。
- 吐蕃もふたたび講和を請い、玄宗はこれを許した。
- 黙啜の死により、奚・契丹・抜曳固らが内附し、突騎施の蘇禄も自立して可汗を称したため、突厥の諸部は離散した。
八月・十月 王晙の降戸内地移住策とその的中
- 毗伽可汗が立つと、河曲に住む突厥降戸の多くがまた帰ろうとした。并州長史王晙は、彼らは国の混乱で一時的に降っただけで、安定すれば必ず離反すると見抜いた。
- 王晙は、河曲に置けば軍州の統制を受けず、やがて北虜の内応になると述べ、秋冬のうちに兵を集めて利害を諭し、食糧を与えて内地へ移すべきだと上言した。二十年も経てば旧俗も変わり、かえって精兵になるだろうとした。
- また、「以前も河曲に降戸を置いて安定した」との反論に対し、当時は頡利滅亡後で異心がなかったが、今は北虜がなお存在しており事情が違うと論じた。
- 上奏への返答がないうちに、奚結跌思泰・阿悉爛らは果たして叛いた。冬十月甲辰、薛訥が朔方兵を率いて追討し、王晙も并州兵を率いて河を西に渡り昼夜兼行してこれを破り、三千級を斬獲した。
十月 張知運の敗死と郭知運の戦功
- 以前、単于副都護張知運は降戸の兵仗を没収し、河の南へ移そうとしていたため恨みを買っていた。
- 巡辺使姜晦は、降戸が弓矢を返してほしいと訴えると、狩猟できないのは不便だとして返還した。その武器が叛乱に用いられた。
- 張知運は備えなく青剛嶺で戦って捕らえられ、突厥へ送られる途中、郭知運が朔方兵で黒山呼延谷に邀撃して大破し、張知運は一度解放された。
- しかし玄宗は張知運を敗軍の責任で斬って徇した。
十月 毗伽可汗と暾欲谷
- 毗伽可汗は思泰らを得て南侵を望んだが、老臣暾欲谷は、唐の君主は英明で民和し歳も豊か、今は動くべき時でないと止めた。
- また毗伽は城郭や寺観の建立も考えたが、暾欲谷は、突厥が強いのは逐水草の遊牧と射猟の習俗にあり、定住して旧俗を変えれば敗れた時に滅びるだけだと反対した。仏道の教えは仁弱を勧め、武争には向かないとも述べ、毗伽は思いとどまった。
十月・十一月 睿宗葬儀と盧懷慎の死
- 庚午、睿宗を橋陵に葬り、廟号を睿宗とした。
- 李傑は橋陵造営の監護中、判官王旭の汚職を取り調べたが、逆に陥れられて衢州刺史に左遷された。
- 十一月己卯、病篤い盧懷慎は上表し、宋璟・李傑・李朝隠・盧従愿はいずれも時代の重器であり、軽い罪で棄てるべきでないと推挙した。
- 乙未、盧懷慎は薨じた。家に蓄えはなく、一人の老僕が自らを売って葬儀費用を出そうとしたほどだった。
十一月・閏月 姚崇の病と政界再編
- 丙申、源乾曜が黄門侍郎同平章事となった。
- 姚崇には自宅がなく、罔極寺に寓居して病のため政務を休んでいた。玄宗は日に何度も使者を送って安否を問うた。
- 源乾曜が奏事しても、意にかなえば「姚崇の謀だろう」と言い、かなわなければ「なぜ姚崇と相談しないのか」と言うほどで、大事があれば乾曜を寺へ向かわせて意見を聞いた。
- 癸卯、乾曜は姚崇を四方館へ移して家族の看病も許すよう願い、認められた。姚崇は、四方館は公文書のある役所で病者の居るところではないと辞退したが、玄宗は「それは官吏のための館だが、卿のために使うのは国家のためだ」として押し切った。
- ただし姚崇の子の彛・異らは贈賄を受けるとの非難があり、また主書趙誨は胡人から賂を受けて死罪相当となった。姚崇はこれを救おうとして玄宗の不興を買った。ちょうど京城の曲赦があったが、玄宗は趙誨だけは名指しして杖一百・嶺南流罪とした。
- これにより姚崇は不安を深め、たびたび辞職を願って宋璟を後任に推した。
- 十一月、玄宗が東都行幸を計画すると、宋璟を刑部尚書・西京留守として驛召した。迎えに出た楊思勗とは道中ほとんど口をきかず、楊思勗が不満を訴えると、玄宗はかえって宋璟の風格をますます重んじた。
- 丙辰、玄宗は驪山温湯に行幸し、乙丑に還宮した。
- 閏月己亥、姚崇は開府儀同三司として罷められ、源乾曜も京兆尹・西京留守となり、宋璟が守吏部尚書兼黄門監、蘇頲が紫微侍郎同平章事となった。
閏月 宋璟・蘇頲の相政
- 宋璟は人材選抜と適材適所を重視し、刑賞に私がなく、皇帝にも率直に諫めた。玄宗も大いに敬い、意に合わぬ時でも曲げて従った。
- 郝霊荃は黙啜の首を得たことを不世出の功と自負したが、宋璟は武功を好む風潮を抑えるため、その賞を強く抑え、一年以上たってようやく郎将に任じた。郝霊荃は悲憤のうちに死んだ。
- 宋璟と蘇頲は協調して政務に当たり、姚崇が変通に長けたのに対し、宋璟は法を守り正を持する相と評された。後世、房玄齢・杜如晦の後に姚宋が称えられるのはこのためである。
- 高仲舒は古典に通じ、斉澣は時務に熟していたため、姚崇・宋璟は疑問があれば二人に問うて政の欠漏を補った。
閏月 制度改正
- 辛丑、十道按察使を廃した。
- また、従来は六品以下官も尚書省の奏擬によっていたが、この年から員外郎・御史・起居郎・遺補などは奏擬にかけず、天子が直接任じることとなった。