資治通鑑唐紀二十七 玄宗 開元 五年 一年 657年
正月 太廟四室の崩壊と東都行幸論
- 正月癸卯、太廟四室が崩れ、玄宗は喪服を着て正殿を避けた。
- このとき玄宗は東都へ行幸する予定であり、宋璟・蘇頲は、睿宗の喪の三年がまだ明けておらず、今行けば天意にかなわず、この災異も戒めであるとして中止を勧めた。
- これに対し姚崇は、廟材は苻堅の時代の古材で朽ちただけで、行幸の日程と偶然重なったにすぎないと述べ、関中が不作なので東都へ赴く準備はすでに整っており、失信すべきでないと主張した。神主を太極殿に移して太廟を修理し、予定どおり進発すればよいという意見で、玄宗はこれを喜んで採用し、姚崇に絹二百匹を賜った。
- 己酉、太極殿で享礼を行い、姚崇には五日に一度の朝参と入閤供奉を命じ、なおも重用した。
- 右散騎常侍褚無量は、隋文帝でさえ太廟建立に古材は使わなかったはずであり、姚崇の言は天戒を軽んじる諂言だと諫めたが、玄宗は聞き入れなかった。
正月・二月 東都行幸と宋璟の諫め
- 辛亥、玄宗は東都へ向かった。崤谷は道が狭く整備も悪かったため、玄宗は河南尹と知頓使を処罰しようとした。
- 宋璟は、今まさに巡幸を始めたばかりで、この件で二人を罰すれば将来民に負担を押しつける弊害が起こると諫めた。玄宗はただちに赦した。
- さらに宋璟は、皇帝が自分の言で免じた形では、自分が徳を受けたように見えるので、いったん朝堂で罪を待たせてから赦すべきだと求め、玄宗も従った。
- 二月甲戌、東都に到着し、天下に大赦した。
三月 営州復置
- 奚・契丹の帰附を受け、貝州刺史宋慶礼は営州の復置を建議した。
- 三月庚戌、柳城に営州都督府を復置し、平盧軍使を兼ねさせ、管内州県・鎮戍も旧制どおりに戻した。
- 太子詹事姜師度を営田支度使として宋慶礼らとともに築城にあたらせると、三旬で工事を終えた。
- 宋慶礼は清勤で厳格、屯田八十余所を開き、流民を招き戻したため、数年で倉廩は充実し、市街も繁盛した。
四月・五月 皇族と西域情勢
- 四月甲戌、奚王李大酺の妃辛氏に固安公主の号を賜った。
- 己丑、皇子嗣一が死去し、夏王を追封して悼と諡した。母は武恵妃で、武攸止の女であった。
- 突騎施の酋長蘇禄は部衆をますます強め、朝貢は欠かさないものの、ひそかに辺境を窺う気配を見せた。
- 十姓可汗阿史那獻は葛邏禄兵を発してこれを討とうとしたが、玄宗は許さなかった。
五月・七月 姜皎兄弟の退隠
- 玄宗がまだ皇太子以前だった頃、姜皎と親交が深く、竇懐貞らの誅殺にも功があったため、即位後は寵遇が群臣中でも抜きんでていた。宮中に自由に出入りし、后妃と同席して宴飲するほどだった。
- 弟姜晦もその縁で累進したが、宋璟は兄弟の権勢が盛りすぎるのは本人たちの安寧にもよくないと諫めた。
- 玄宗もそれを認め、七月庚子、姜晦を宗正卿とし、さらに「前漢では権貴の将が身を全うできず、後漢の南陽旧友は閑散な地位で自保した」との意をこめた詔を出し、姜皎を田園に帰らせた。散官・勲封はそのままとした。
七月・八月 対吐蕃・対突騎施
- 壬寅、隴右節度使郭知運は九曲で吐蕃を大破した。
- 安西副大都護湯嘉恵は、突騎施が大食・吐蕃を引き入れて四鎮を奪おうとし、鉢換・大石城を囲んでいると奏した。そこで三姓葛邏禄兵を発し、阿史那獻とともにこれを撃たせた。
- 并州長史張嘉貞は、太原以北に散住する突厥九姓の新降者を鎮めるため、重兵を宿すよう求めた。
- 辛酉、并州に天兵軍を置き、兵八万を集めて張嘉貞を天兵軍大使とした。
八月・九月 明堂の改廃と官名復旧
- 太常少卿王仁恵は、武后が立てた明堂は古制に合わず、しかも豪奢にすぎて宮禁にも近く、人神雑擾の弊があると奏した。
- 甲子、朝廷は明堂をふたたび乾元殿と改め、冬至・元日の朝賀はそこで受け、季秋の大享は円丘で行うこととした。
- 九月、中書門下省と侍中の官名も旧制に復した。
九月 密奏慣行の是正
- 貞観の頃は、中書門下や三品官が奏事する際、諫官・史官が必ず随行し、過失は正し善悪は記録された。また御史は正牙で弾文を読み上げて百官を弾劾したので、大臣が君主を専断したり、小臣が中傷したりしにくかった。
- しかし許敬宗・李義府以後、政務の多くは仗下で左右を退けて密奏され、監奏御史や待制官も遠く離れて待つだけとなり、諫官・史官は仗が終われば事情を知らなくなった。
- 武后の時代には、御史同士の相互弾劾が横行して険詖な讒争に傾いた。
- 宋璟は貞観の政に復そうとし、戊申、真に秘すべき案件でない限り、すべて対仗で奏聞させ、史官も旧例どおり随従させるよう定めた。
十月 中宗・睿宗の廟次論争
- 伊闕の孫平子は、春秋が魯で僖公を躋祀したことを非難した例を引き、今、中宗を別廟に遷し睿宗を太廟に祀るのは、兄たる中宗の上に弟たる睿宗を置くことになり、礼に反すると上言した。
- 礼官に付議され、陳貞節・馮宗・蘇献らは、七代の廟では兄弟を世代数に数えない、殷代にも兄弟相継が四代続いた例があるから、睿宗は高宗の次に位置づき、中宗の上に躋るわけではないと論じた。
- 当時の議論は孫平子支持も多く、玄宗自身も一理あると思っていたため、議論は長引いた。蘇献は蘇頲の従祖兄であったため、頲がこれを後押しした。最終的には礼官の議が採られ、孫平子は論争をやめなかったため康州都城尉に左遷された。
- 新太廟が完成すると、戊寅、神主を祔した。
十月 諸皇子の命名方針
- 玄宗は宋璟・蘇頲に諸皇子の名と国号を定めさせ、さらに特に優れた名号を別に作って進めるよう求めた。
- 二人は、詩経の「七子を均しく養う」趣旨を引き、三十余の名号をすべて同列にして進め、皇帝の慈愛に偏りがないことを示した。玄宗はこれを大いに評価した。
十一月・十二月 契丹朝見と典籍整理
- 十一月丙申、契丹王李失活が入朝した。
- 十二月壬午、東平王の外孫楊氏を永楽公主として、李失活に嫁がせた。
- 秘書監馬懷素は、秘書省の書籍が散乱し誤脱も多いとして、学識ある者二十人を選び、整理・校補を願い出た。認められて、尹知章・韋述ら二十人が刋正にあたり、褚無量がこれを統率した。作業は乾元殿前で行われた。