正月 盧懷慎の人物と宰相評
- 癸卯、盧懷慎は検校吏部尚書を兼ねて黄門監となった。
- 盧懷慎は清廉・謹慎で、財産形成に努めず、俸禄や賜物も親旧に分け与えたため、妻子は飢寒を免れず住居も粗末だった。
- あるとき姚崇が子の喪で十余日休むと、政務が滞った。懐慎は決裁できず玄宗に謝罪したが、玄宗は「天下の政務は姚崇に委ね、卿には天下を鎮める役を期待している」と述べた。姚崇が戻るとたちまち案件を片づけたので、懐慎は世間から「伴食宰相」と呼ばれた。
- 司馬光は、才ある者に政を譲り、自らはこれを妨げない補佐役もまた賢であると評価している。
正月・二月 宋璟左遷と突厥十姓の来降
- 御史大夫宋璟は、朝堂での杖罰監督で刑が軽すぎたとして、睦州刺史に左遷された。
- 突厥十姓の降人は前後して一万余帳に及び、高麗の莫離支文簡も十姓の婿として、奚結跌都督思泰らとともに二月に部衆を率いて来降した。朝廷は彼らを河南の地に移して処遇した。
三月・四月 北辺節度の強化
- 三月、胡禄屋の酋長支匐忌らが入朝した。
- 十姓降人が増えてきたため、四月庚申、薛訥を凉州鎮大総管として赤水などの軍を節度させ、凉州に駐させた。また郭虔瓘を朔州鎮大総管として和戎などの軍を節度させ、并州に置いた。いずれも黙啜に備えるためである。
- 黙啜は葛邏禄・胡禄屋・鼠尼施らを繰り返し攻め破ったため、朝廷は北庭都護湯嘉恵・解琬らに兵を出して救援させた。
- 五月壬辰には、湯嘉恵らに葛邏禄・胡禄屋・鼠尼施および阿史那獻と相互に連携するよう命じた。
五月 蝗害対策
- 山東で大蝗が発生し、民の中には田のそばで香を焚いて拝み、祭るだけで殺そうとしない者もいた。
- 姚崇は御史を派遣して州県に捕殺・埋却を督励した。議論する者は、蝗は多すぎて駆除しきれないといい、玄宗も疑った。
- しかし姚崇は、山東・河南・河北の民が流亡し尽くすほどの災いなのだから、何もしないわけにはいかない、たとえ取り尽くせなくても放置するよりましだと主張した。
- 盧懷慎は、多数の蝗を殺せば和気を損なうのではと懸念したが、姚崇は、人命より蝗を惜しむのは誤りであり、もし災いがあるなら自分が負うと断言した。
七月・九月 経書講読の制度化
- 七月庚辰朔、日食があった。
- 玄宗は、読書中に疑問があっても質問相手がいないことを惜しみ、学識ある儒者を日々宮中に入れて侍読させたいと述べた。
- 盧懷慎の推薦で馬懷素が選ばれ、九月戊寅、左散騎常侍として、右散騎常侍褚無量と交代で進講することになった。
- 閤門まで来れば肩輿に乗せて入れ、遠い館に赴く場合は宮中で馬に乗ることも許し、皇帝自ら送迎することさえあった。褚無量が老いて衰えていたため、特別に腰輿も作らせた。
九月 西南蛮対応と突厥討伐準備
- 九姓の思結都督磨散らが帰降すると、官を授けて西へ帰した。
- 西南蛮が辺境を侵したため、李玄道に戎・瀘・夔・巴・梁・鳳などの州兵三万人と旧屯兵を率いさせて討たせた。
- 壬戌、薛訥を朔方道行軍大総管とし、呂延祚・杜賓客を副えて突厥討伐に当たらせた。
- 甲子、玄宗は鳳泉湯に行幸した。
十一月 劉幽求の最期
- 十一月乙卯、劉幽求は杭州刺史から郴州刺史へ移されていたが、道中で憤懣のまま病み、甲申に死去した。
十一月・十二月 安西経略への反対と張孝嵩の西域武功
- 丁酉、郭虔瓘を安西大都護・四鎮経略大使に兼ねさせた。郭虔瓘は関中から一万人を募り、安西までの輸送に駅伝の駄載と熟食を供給するよう求め、許された。
- これに対し韋湊は、西域は現状の守備兵で十分であり、関中の兵力を遠く荒服に費やすのは本末転倒だと反対した。輸送負担も莫大で、成功しても利益は少ないと論じ、姚崇もこの案に賛成しなかった。実際、郭虔瓘は大きな成果を挙げられなかった。
- 監察御史張孝嵩は、廓州への使いから戻ると西域の利害を説き、さらに現地視察を願った。許可を得て赴くと、抜汗那王が吐蕃・大食に立てられた阿了達に敗れて安西へ救援を求めてきた。
- 張孝嵩は、これを救わねば西域諸国に号令できないとし、呂休璟を説いて周辺の戎落一万余を率い、龜茲から西へ進んで数百城を下し、連城で阿了達を急襲した。三城を攻略し、阿了達は数騎で逃げた。
- その威勢により、大食・康居・大宛・罽賓など八国が使者を送り降を請うた。
- ただし後に贓汚の嫌疑を受け、張孝嵩は凉州獄に繋がれて霊州兵曹参軍に左遷された。のち再起して西域で名を上げることになる。
十二月 崔日知事件と按察使存廃
- 京兆尹崔日知は貪暴で法を無視していた。御史大夫李傑が糾弾しようとすると、崔日知は逆に李傑の罪を構えた。
- 十二月、侍御史楊瑒が廷上で、弾劾官が奸人に威嚇されるようでは御史台そのものが不要になると主張し、玄宗はただちに李傑を復職させ、崔日知を歙県丞に左遷した。
- そのころ、按察使は公私を煩わすだけだとする意見も出たが、姚崇は、十人の使者を選ぶだけでも難しいのに、全国三百余州県の刺史・県令すべてが適任であるはずがないと反論し、制度は存続した。
十二月 韋玢の進言
- 尚書左丞韋玢は、郎官の多くが職務を果たさないとして整理・改授を求めた。
- ほどなく韋玢が地方官に出される際、宰相は冀州を拟したが、勅命で小州に改められた。
- 姚崇は、郎官の怠慢を正そうとした韋玢を外に斥ければ、今後左右丞がそれを戒めとして省務が滞ると述べ、最終的に冀州刺史に任ぜられた。
是歳 突騎施蘇禄の台頭
- 守忠の死後、突厥軍が退くと、守忠配下の蘇禄が残党を集めて酋長となった。
- 蘇禄は統率に長け、十姓の部衆がしだいに帰服し、二十万の衆を持つに至って西方を掌握した。やがて使者を送り入朝したため、朝廷は左羽林大将軍・金方道経略大使に任じた。
是歳 長孫昕事件
- 皇后の妹婿である尚衣奉御長孫昕は、些細なことから御史大夫李傑と対立した。
- 翌年正月、昕は妹婿楊仙玉とともに里巷で李傑を待ち伏せして殴打することになるが、この年のうちに対立は深まっていた。