資治通鑑唐紀二十七 玄宗 開元 二年 654年

正月 地方官人事の整理と宮廷音楽の再編

  • 正月壬申、朝廷は人事の基準を定め、京官のうち才識ある者を都督・刺史に出し、外任で実績ある都督・刺史は京官に戻す方針を恒例化した。中央と地方の人材循環を均衡させようとしたものである。
  • 己卯、盧懷慎が検校黄門監となった。
  • 従来、雅楽も俗楽も太常寺の管轄だったが、玄宗は礼楽をつかさどる官司が俳優・雑芸まで扱うのは不適当と考え、左右教坊を新設して俗楽を教習させた。范及をその長に任じ、自ら法曲を梨園で楽工に教えたため、彼らは「皇帝梨園弟子」と呼ばれた。さらに宮中の宦官にも習わせ、伎女を宜春院に置いてその家にも恩給を与えた。
  • 礼部侍郎張廷珪、酸棗尉袁楚客らは、皇帝はまだ若く盛年であるからこそ経術を尊び、正しい士を近づけ、華美な音楽や遊猟を慎むべきだと上疏した。玄宗は採用こそしなかったが、その諫言自体は評価した。

正月 仏教統制の強化

  • 中宗以来、皇族・外戚が競って寺院を建立し、僧尼の度牒も濫発され、虚偽の者や富戸・壮丁が出家して租税・徭役を逃れる例が多かった。
  • 姚崇は、名僧がいても国を救えた例はなく、むしろ民を安んじることこそ真の福であり、偽りの出家を許すのは仏法を損なうだけだと論じた。
  • 丙寅、全国の僧尼を精査し、偽って出家していた者一万二千余人を還俗させた。

正月 営州再建論と契丹討伐の発議

  • かつて営州都督府は柳城にあって奚・契丹を鎮撫していたが、則天武后の時代に趙文翽の失政で陥落し、その後は幽州東方の漁陽城に寄治されていた。
  • 靺鞨・奚・霫が唐への帰順を望みながらも、営州がないため拠り所を失い、やむなく黙啜に従っているとの意見が出た。営州を再建すれば彼らは帰化する、という見通しである。
  • 薛訥はこれを信じ、契丹を討って営州を復置したいと奏請した。玄宗も先年の冷陘での敗戦を受けて契丹征討の意向を持ち、姚崇らの反対を押し切って、甲申、薛訥に同紫微黄門三品を加えて出征させた。

正月 外戚の不法を抑える

  • 薛王業の舅である王仙童が百姓を侵害し、御史が弾劾した。薛王業はこれを庇おうとした。
  • 姚崇・盧懷慎らは、仙童の罪は明白で御史の弾奏にも枉げた点はなく、外戚であっても赦してはならないと上奏した。玄宗はこれに従い、以後、貴戚も勝手ができなくなった。

二月 日食不発の祝いと北庭防衛

  • 二月庚寅朔、太史が「日食のはずが起こらなかった」と報告し、姚崇はこれをめでたいとして史冊に記すよう請い、認められた。
  • 乙未、突厥の可汗黙啜は子の同俄特勒、妹婿の火抜頡利発、石阿失畢らに兵を率いさせて北庭都護府を包囲した。都護郭虔瓘はこれを破り、同俄が単騎で城下に迫ると伏兵を出して斬った。突厥側はその遺体を軍資で贖おうとしたが、すでに戦死していたため、哭して退いた。

二月閏月 寺院新設の禁止と北辺防衛体制

  • 丁未、今後は各地で新たに仏寺を建てることを禁じ、旧寺の修理も官司の査察を経た場合にのみ許可するとした。
  • 閏月、王晙を安北大都護・朔方道行軍大総管とし、豊安・定遠・三受降城および周辺諸軍をその節度下に置いた。あわせて大都護府を中受降城に移し、屯田を設けて守りを固めた。
  • 丁卯、十道按察使を復置した。

閏月 功臣の家への配慮と請託の抑制

  • 玄宗は、かつて徐有功が法の運用において公平だったことを思い、その子の惀を恭陵令に任じた。窦希瑊らはその恩に報いるため、自らの官爵を譲りたいと願い出たほどで、惀は後に昇進を重ねた。
  • 丙子、申王成義が自身の府の録事である閻楚珪を参軍に進めるよう求め、玄宗はいったん許した。
  • しかし姚崇・盧懷慎は、王公・駙馬の奏請は墨書の正式な勅命がなければ施行しないという先例を引き、官爵の付与は有司に帰すべきで、縁故による推薦は紀綱を乱すと諫めた。このため人事は取り消され、以後は請託が通りにくくなった。

閏月 突厥降人の受容と功臣処分

  • 突厥の石阿失畢は同俄を失って帰国を恐れ、妻とともに唐へ亡命した。癸未、右衛大将軍・燕北郡王に封じ、その妻には金山公主の号を与えた。
  • 劉幽求・鍾紹京に不満の言動があると告発があり、紫微省で取り調べられた。姚崇・盧懷慎・薛訥は、彼らはいずれも功臣であり、閑職に移されて一時的に気落ちするのは人情だが、ただちに獄につなぐのは遠近に衝撃を与えると弁護した。
  • 戊子、玄宗は重罰を避け、劉幽求を睦州刺史、鍾紹京を果州刺史に左遷した。王琚も幽求の党とみなされて沢州刺史に左遷された。
  • あわせて、周利貞ら十三人の武后時代の酷吏については、周興らよりは軽いとして官を奪い、終身仕官させない処分とした。

三月 西突厥の叛乱鎮圧と中宗遺詔問題の清算

  • 西突厥十姓の酋長都擔が叛き、己亥、磧西節度使阿史那獻が碎葉などの鎮を回復し、都擔を斬ってその部二万余帳を降した。
  • 姜晦は、宗楚客らが中宗の遺詔を改変した際、当時の宰相であった韋安石・韋嗣立・趙彦昭・李嶠がこれを正さなかったと弾劾した。さらに趙彦昭が巫女を「姑」として女性の服でその家に通ったことも非難した。
  • 甲辰、四人はそれぞれ地方の別駕に左遷された。韋安石は沔州に至ったのち、さらに定陵検校中の官物隠匿まで追及され、憤激のあまり死去した。

三月 武后の遺構の撤去

  • 武后の天枢を破壊し、その鉄を鋳つぶして銭に回したが、何か月もかかるほどの規模だった。
  • かつて韋后が天街に築いた石台も、この時あわせて壊された。

四月・五月 外交交渉と官制整理

  • 四月辛巳、黙啜は再び使者を送り、婚姻を求めた。きわめて誇大な尊号を自称していた。
  • 五月己丑、凶作を理由に、員外・試・検校の官を広く廃し、今後は戦功または特別の勅命がないかぎり任用しないこととした。
  • 己酉、吐蕃宰相坌達延が書を送り、まず解琬を河源へ派遣して国境を正したうえで盟約を結びたいと求めた。解琬は以前に朔方大総管を務め、吐蕃側もそれを見込んで名指しした。朝廷は彼を左散騎常侍として起用し、派遣した。
  • 解琬は、吐蕃は内心では叛意を抱いているはずで、秦・渭などに十万の兵を前もって置いて備えるべきだと上言した。

五月 姚崇と魏知古

  • 黄門監魏知古はもとは小吏から出世し、姚崇の推薦で宰相に至った人物だったが、姚崇は内心これを軽んじていた。
  • 姚崇は魏知古に東都の選事を代行させる一方、自身の二子が東都でその威を借りて請託を行った。魏知古は帰京後、そのことを玄宗に報告した。
  • 玄宗が姚崇に子息の人柄を問うと、姚崇は自分から、二子は欲深く慎みが足りず、魏知古に事を頼み込んだに違いないと答えた。玄宗は、子をかばうかと思っていたところでこの率直さを喜び、姚崇を無私と見た。
  • その一方、魏知古には恩に報いず姚崇を陥れようとした疑いを抱き、これを退けようとしたが、姚崇は、知古を自分ゆえに排斥すれば天下は皇帝が私恩で政を曲げたと思うだろうとして、強く取りなした。
  • 辛亥、魏知古は罷免され工部尚書となった。

六月 諸王との親愛と外任化

  • 玄宗は兄の宋王成器・申王成義、弟の岐王範・薛王業、従兄の豳王守礼らと非常に親しく、同じ寝具で寝起きし、毎朝会い、退朝後は宴飲・闘鶏・打毬・近郊の遊猟などを共にした。宮中でも家族同然の礼で接し、音楽を合わせ、病気の際には自ら薬を煎じるほどだった。
  • とくに成器は慎み深く、政事に口を出さず交結もしなかったため、玄宗の信頼は厚かった。しかし臣下は、帝位に近い諸王を慣例どおり外州に出すべきだと求めた。
  • 丁巳、成器を岐州刺史、成義を豳州刺史、守礼を虢州刺史に兼ねさせた。ただし実務は長史・司馬ら上佐に委ね、王は大綱のみを領することとした。以後、諸王が都護・都督・刺史となる場合の通例となった。
  • 丙寅、吐蕃は宰相尚飲蔵を派遣して盟書を献じた。

七月 奢侈の抑制

  • 玄宗は風俗の奢靡を憂え、乙未、天子の金銀器を溶かして軍国費にあて、珠玉・錦繡は殿前で焼却し、后妃以下も珠玉・錦繡の服用を禁じた。
  • 戊戌、百官の帯、酒器、馬具の装飾も位階に応じて玉・金・銀を限定し、それ以下は禁止した。婦人の服飾も夫または子の身分に従わせた。
  • 既存の錦繡は黒く染めることを許したが、新たな採珠・玉石採取・錦繡製造は禁じ、違反者は処罰した。両京の織錦坊も廃止された。

七月 薛訥の契丹遠征失敗

  • 薛訥は杜賓客・崔宣道らと六万の兵を率いて檀州から契丹を討った。杜賓客は、盛夏の深追いは兵の負担が大きく成功しにくいと諫めたが、薛訥は草が肥え家畜も増える季節だからこそ敵糧に頼れて好機だと主張した。
  • しかし灤水の山峡で契丹の伏兵に前後を断たれ、唐軍は大敗し、戦死者はほとんどに及んだ。薛訥は数十騎で脱出しただけで、契丹側からは「薛婆」と嘲られた。
  • 崔宣道も後軍を率いて退いたが、薛訥は敗戦の責任を宣道や胡将李思敬ら八人に押しつけたため、彼らは幽州で斬られた。
  • 庚子、玄宗は薛訥の死罪だけは免じ、官爵を削った。杜賓客のみは罪を赦された。

七月 人事と宮廷規制

  • 壬寅、郭虔瓘を凉州刺史・河西節度使とした。
  • 果州刺史鍾紹京はなお不満を抱き、たびたび上疏して吉凶をみだりに説いたため、乙巳に溱州刺史へ再左遷された。
  • 丁未、房州刺史の襄王重茂が死去し、朝を三日停止して殤皇帝と追諡した。
  • 戊申、百官の家が僧尼・道士と交際することを禁じた。
  • 壬子、民間での仏像鋳造・写経を禁じた。

七月・八月 興慶宮の造営と後宮整理

  • 宋王成器らは興慶坊の邸宅を離宮に献上したいと願い、甲寅、玄宗はこれを許して興慶宮を造り始めた。諸王には宮の周囲に新たな邸宅を与えた。宮西南には花萼相輝楼・勤政務本楼を建て、楽が聞こえれば王たちを招いて宴するなど、親愛の場となった。
  • 乙卯、岐王範を絳州刺史、薛王業を同州刺史に兼ねさせ、宋王以下は四季ごとに二人ずつ入朝させることとした。
  • 民間で「皇帝が美女を広く集めて後宮に入れようとしている」との流言が広がると、乙丑、玄宗は崇明門に車と牛を備え、後宮で不要な者を自ら選んで家に帰した。「宮中の奥でさえこうして減らしているのだから、民間はなおさら心配無用である」と示した。

八月 吐蕃の侵攻と陇右防衛

  • 乙亥、吐蕃の坌達延・乞力徐が十万を率いて臨洮軍に侵入し、蘭州から渭源に及び、牧馬を掠奪した。
  • 玄宗は、灤河で敗れて官爵を失っていた薛訥を白衣のまま左羽林将軍に仮任し、隴右防禦使とした。郭知運を副使とし、王晙とともに討たせた。
  • 辛巳、勇士を広く募って河・隴に赴かせ、薛訥の下で訓練させた。
  • もともと九曲の地は楊矩が吐蕃に与えたもので、その肥沃さから吐蕃はそこを牧地として辺境侵攻の足場にしていた。楊矩は後悔と恐怖から自殺した。

八月 武后鼎銘の献上

  • 乙酉、薛謙光は武后が作らせた豫州鼎の銘文を献上し、その末尾にある文句を玄宗受命の符瑞と解して、姚崇も慶賀し史官への宣示を求めた。

九月 常平倉の整備と突厥の衰え

  • 戊申、玄宗は驪山温湯に行幸した。豊年でも穀価の変動で農を損なうことを防ぐため、諸州に常平倉の制度を修復させた。ただし江・嶺・淮・浙・剣南など湿地帯は貯蔵に向かないとして対象外とした。
  • 黙啜は老衰と暴虐が深まり、壬子、葛邏禄などの部族が凉州へ降った。

十月 吐蕃討伐と大勝

  • 吐蕃は再び渭源へ侵攻した。丙辰、玄宗は親征の詔を下し、十余万の兵と四万匹の馬を発する構えを見せたが、戊午には宮へ戻った。
  • 甲子、薛訥は武街で吐蕃と戦って大破した。王晙は二千の兵で合流し、坌達延の十万が大来谷に屯していると知ると、勇士七百に胡服を着せて夜襲し、後方に鼓角を多数置いて大軍に見せかけた。吐蕃軍は混乱して同士討ちとなり、多数が死んだ。
  • その後も夜襲を重ねて薛訥軍と合流し、洮水まで追撃、さらに長城堡でも敗走させ、前後で数万を殺獲した。豊安軍使王海賓は戦死した。
  • 戊辰、姚崇・盧懷慎らは、神龍年間に吐蕃が婚姻を機に河を越えて城を築き、独山・九曲の二軍を置き、河上に橋まで架けたことを指摘し、今や叛いた以上は橋を壊し城を抜くべきだと奏し、採用された。
  • 王海賓の子忠嗣は朝散大夫・尚輦奉御とし、宮中で養育させた。

十月 対外関係の継続

  • 己巳、黙啜はまた婚姻を求める使者を送ってきた。玄宗は翌年、公主を迎えさせると約した。
  • 突厥十姓の胡禄屋ら諸部も北庭で帰降を請い、郭虔瓘にこれを撫慰させた。
  • 乙酉、尉遅瓌を吐蕃に派遣して金城公主を慰問させた。吐蕃も大臣宗俄因矛を洮水に遣わし、対等の国として和を求めたが、玄宗はこれを認めず、その後も吐蕃は連年辺境を犯した。

十一月・十二月 葬礼・節度体制・皇太子冊立

  • 十一月辛卯、殤皇帝を葬った。
  • 丙申、解琬を北庭に派遣し、突厥から降った諸部の慰撫と処置を臨機応変に行わせた。
  • 十二月壬戌、沙陀金山が入朝した。
  • 甲子、隴右節度大使を置き、鄯・秦・河・渭・蘭・臨・武・洮・岷・廓・疊・宕の十二州を統轄させ、郭知運を隴右防禦副使からこれに任じた。
  • 乙丑、皇子嗣真を鄫王、嗣初を鄂王、嗣玄を鄄王に封じた。
  • 辛巳、郢王嗣謙を皇太子に立てた。嗣真が長子であったが、嗣謙の母趙麗妃が寵愛されていたためであった。

是歳 北辺・西域の動き

  • 幽州節度経略鎮守大使を置き、幽・易・平・檀・媯・燕六州を管轄させた。
  • 突騎施可汗守忠の弟遮弩は、部衆の分配が兄より少ないことを恨み、突厥に奔って道案内となることを申し出た。黙啜は兵二万で守忠を破って捕えたが、遮弩については兄を裏切る者は自分にも忠実ではないとして、あわせて殺した。