資治通鑑唐紀二十三 則天順聖皇后 長安 二年 702年

春三月 日食

  • 三月朔日に日食があった。

夏四月から六月 吐蕃の婚姻要請・官制改称・新羅王交代

  • 吐蕃が馬千匹、金二千両を献じて婚姻を求めた。
  • 閏月、韋安石が神都留守となった。
  • 文昌台は中台と改称された。
  • 新羅王金理洪が死去したため、その弟の崇基を王に立てる使者が派遣された。

六月 突厥の婚姻要請と災害

  • 突厥の黙啜が使者を送り、皇太子の子に娘を嫁がせたいと求めた。
  • 寧州では大水が起こり、二千余人が溺死した。

秋七月 朱敬則・唐休璟の起用

  • 朱敬則が同平章事となった。
  • 相王旦が雍州牧となった。
  • 唐休璟が同鳳閣鸞台三品となった。
  • この頃、突騎施の酋長烏質勒が西突厥諸部を攻め、安西への路が絶えた。
  • 太后は唐休璟に諸宰相と協議させると、ほどなく提出された策に従って施行した。
  • 十余日後、安西諸州からの救援要請は、その所要日数や状況が唐休璟の見立てとぴたり一致したため、太后は彼を用いるのが遅かったことを悔やみ、他の宰相たちは彼に遠く及ばないと評した。
  • 西突厥では斛瑟羅が刑政残酷で諸部の支持を失い、もとその配下だった烏質勒が諸部をまとめて勢力を伸ばし、ついに碎葉を奪ってその地に牙帳を移した。
  • 斛瑟羅は部衆を失って入朝し、その旧地を烏質勒が併せ取った。

九月 魏元忠と張氏兄弟の対立

  • 朔日に日食があった。
  • 魏元忠はかつて洛州長史であった頃、張昌儀が兄たちの権勢を頼んで長史の庁にまで上がり込むのを叱って追い下げた。
  • また、張易之の奴僕が都市で暴れたときには杖殺した。
  • さらに宰相となってからも、太后が張昌期を雍州長史にしようと諮ると、他の宰相が皆賛成する中で、魏元忠だけは若くて吏事に不慣れであり、岐州で戸口を逃散させた実績しかないとして、薛季昶の方が適任だと反対した。
  • また、先帝以来の恩を受けて宰相となりながら、小人を天子の側に置くのを防げないのは自分の罪だと面前で述べた。これは張易之兄弟を指したもので、太后は不快に思い、張氏側は深く恨んだ。

高戩事件と張説の翻意

  • 太平公主に寵愛されていた高戩が、太后の病が重い折に、張昌宗の讒言で魏元忠と密議して太子を立てようとしたとされ、二人とも獄に下された。
  • 張昌宗は鳳閣舎人の張説をひそかに買収して、自分に有利な証言をさせようとした。
  • 対質の日、宋璟・張廷珪・劉知幾らは張説に対し、名義は重く鬼神も欺けない、邪に与して正を陥れるなと励ました。
  • 張説は殿上で、魏元忠に謀反の言葉はなく、むしろ張昌宗が自分に偽証を強いたのだと明言した。
  • 張易之兄弟は逆に張説と魏元忠が同党だと叫んだが、張説は、伊尹・周公にたとえたのは宰相として忠臣の道を勧めたのであって、反逆の意味ではないと理路整然と弁明した。
  • 太后は張説まで獄に繋ごうとしたが、朱敬則・蘇安恒らが強く弁護した。蘇安恒は、太后が若い頃は諫言を納れる主と見られたが、近年は佞臣を受け入れる主と見られており、もし忠臣を退け讒佞を信じれば、朱雀門内で争いが起こり、大明殿前で鼎が問われるような変事もありうるとまで述べた。
  • それでも丁酉、魏元忠は高要尉に左遷され、高戩と張説は嶺南に流された。
  • 魏元忠は辞去に際し、張易之・張昌宗を指して、この二人の小児こそ後日の乱の階となるだろうと太后に告げた。

王睃・馬懐素・宋璟の直言

  • 殿中侍御史の王睃は、すでに魏元忠の命が助かっているのに、なおその冤を訴えようとした。宋璟は危険を案じたが、王睃は義によって動く以上、たとえ破滅しても悔いはないと言った。
  • 崔貞慎ら八人が郊外で魏元忠を見送ると、張易之はこれを利用して謀反の告発を偽造した。
  • 太后は馬懐素に取り調べを命じ、しかも「これは事実なのだから略問して早く報告せよ」と急がせた。
  • しかし馬懐素は、魏元忠は流罪であってまだ死罪ではないし、親故の者が送別しただけで謀反とするのはできない、もし罪を加えたいなら君主の独断でよいが、自分に鞫問を命じる以上は事実を奏聞せねばならないと主張した。
  • 太后もついには怒りを解き、崔貞慎らは助かった。

宋璟の孤立

  • 朝貴の宴席で、張易之兄弟の座次は宋璟より上であった。張易之は宋璟を懐柔しようと第一人者だと持ち上げたが、宋璟はなぜ自分が第一なのかと突き放した。
  • 鄭杲が「中丞はどうして五郎を卿と呼ぶのか」とたしなめると、宋璟は官位から言えばそう呼ぶのが当然であり、お前こそ張家の家奴ではないかと一喝した。
  • 武三思以下、皆が張氏兄弟にへつらう中で、宋璟だけは礼を取らなかったため、張氏は常に彼を害そうとしたが、太后がそのことを知っていたため大きな禍を免れた。

冬 西京への発駕・桂州平定・吐蕃の政変

  • 武攸宜が西京留守となった。
  • 十月、車駕は西京を発って神都に着いた。
  • 十一月、突厥が婚姻許可への謝意を示す使者を送り、宿羽台で宴が開かれ、太子も列した。
  • 宮尹崔神慶は、太子への召命は五品以上に用いる亀符では軽すぎ、今後、朔望の朝参以外で呼ぶ場合には、必ず墨敕と玉契を下すべきだと上疏した。太后はこれをもっともだとした。
  • 始安の獠・欧陽倩が数万人を率いて州県を攻め落としたが、朱敬則の推薦で桂州都督となった裴懐古が、忠信をもって単騎同然でその営に赴き、禍福を説いて降伏させた。諸洞の酋長も続々と帰附し、嶺外は平定された。
  • この年、諸道に使者を分遣し、六条によって州県を察察させた。
  • 吐蕃では南境諸部が叛き、賛普器弩悉弄が自ら征討に出て軍中で死んだ。諸子が争った末、七歳の弃隷蹜賛が立てられた。