資治通鑑唐紀二十三 則天順聖皇后 長安 三年 703年
春正月から二月 西突厥可汗冊立と三陽宮廃止論
- 阿史那懐道が西突厥十姓可汗に冊立された。彼は斛瑟羅の子である。
- 三陽宮を取り壊し、その材木で万安山に興泰宮を造ることになった。
- 三陽宮も興泰宮も武三思の建議によるもので、太后が毎年行幸するために膨大な費用と労役が課され、民は苦しんでいた。
- 左拾遺の盧蔵用は、近臣は順意を忠とし、朝廷の官僚は犯忤を恐れて諫めないため、太后は百姓が失業している実情を知らないのだと上疏した。もし人を労するのを苦しむとの理由で工事を止めれば、天下は太后が身を苦しめて民を愛したことを知るだろうと説いたが、聞き入れられなかった。
二月 韋嗣立の入相と李迥秀の失脚
- 韋嗣立が同平章事となった。
- 李迥秀はかなり賄賂を受けていたため、監察御史馬懐素がこれを弾劾した。
- 二月癸亥、李迥秀は廬州刺史に左遷された。
朱敬則の致仕と地方官重視の議
- 朱敬則は老病により致仕した。彼は宰相として人材登用を最優先し、細事にはあまり関与しなかった。
- 太后が宰相と刺史・県令のことを論じた際、三月、李嶠・唐休璟らは、近年は内官が重んじられ外職が軽んじられ、地方長官にはしばしば罪を得た者が回されているため風俗が澄まないのだと奏上した。
- そこで台閣・寺監から賢良な者を選んで大州を治めさせるべきだとし、自分たち近侍が率先して外任に出ることを願った。
- 太后は名を書かせて抽選のように定め、韋嗣立・楊再思ら二十人を、本官のまま検校刺史として地方へ出した。
- しかしその後、実際に政績を挙げたのは常州刺史薛謙光と徐州刺史司馬鍠くらいであった。
春から夏 宗楚客入相・蘇味道失脚
- 平恩王重福は譙王に移封された。
- 宗楚客が同平章事となった。
- 蘇味道は父の葬儀のため帰郷を願い、州県に葬事を供給させたが、その機会に郷人の墓地や田地を侵し、使役も過度にしたため、監察御史蕭至忠に弾劾された。
- 左遷されて坊州刺史となった。
夏四月 興泰宮行幸と再度の大仏計画中止
- 韋安石が知納言、李嶠が知内史事となった。
- 太后は興泰宮へ行幸した。
- さらに再び天下の僧尼に課税して、白司馬阪に大像を造らせようとし、武攸寧がその事業を監督した。費用は巨額にのぼった。
- 李嶠は上疏し、その十七万余緡もの銭を一戸千文ずつ配れば十七万戸余を救える、仏の慈悲にもかなうのは今苦しむ民を救うことだと論じた。
- 張廷珪も、時政の上からは辺境・府庫・人力を先にすべきであり、仏教の上からも苦厄を救い諸相を離れるのが本義だと諫めた。
- 太后はこれを受けて工事を中止し、張廷珪を召見して深く賞した。
六月 姚元崇・崔玄暐・韋嗣立らの人事
- 姚元崇は母が老いたことを理由に、帰って侍養したいと強く願った。
- 辛酉、相王府長史となり、秩位は三品同等のままとされた。
- 乙丑、崔玄暐が同平章事となった。
- 汴州刺史を検校していた韋嗣立が興泰宮に召し返された。
- 丁丑、李嶠は同鳳閣鸞台二品となり、みずから内史職の解除を願った。
- 壬午、姚元崇は相王府長史に加えて夏官尚書を兼ね、同鳳閣鸞台三品となった。
秋七月 楊再思の媚態
- 楊再思が内史となった。
- 彼は宰相でありながら、ひたすら阿諛で寵を取った。
- 張同休の宴で、酔余の戯れに「楊内史の顔は高麗人に似ている」と言われると、自ら紙を切って冠に貼り、紫袍を逆にまとって高麗の舞を舞い、座中の大笑を買った。
- また、張昌宗の美貌を人々が蓮花にたとえると、楊再思は、蓮花が張昌宗に似ているのであって、その逆ではないとまで言った。
七月から八月 張氏兄弟の汚職摘発と赦免
- 太后が宮中へ戻ると、張同休・張昌期・張昌儀は賄賂の罪で下獄し、左右台に鞫問が命じられた。
- さらに張易之・張昌宗についても、威福をほしいままにしているとして取り調べが命じられた。
- 司刑正賈敬言は、張昌宗が人の田を強買いした件につき、銅二十斤の徴収に相当すると奏し、裁可された。
- 李承嘉・桓彦範は、張同休兄弟の賄賂は四千余緡に及び、張昌宗も法により免官相当だと奏した。
- 張昌宗は自分には国家への功があると主張し、太后が諸宰相にその功は何かと問うと、楊再思は、神丹を調合して聖体に効いたことこそ大功だと答えた。
- 太后は喜び、張昌宗を赦して官位を復した。
- 左補闕戴令言は「両脚狐賦」を作って楊再思を風刺し、楊再思は彼を長社令へ追い出した。
八月 宗楚客左遷・張氏兄弟追及・姚元之の建言
- 宗楚客は罪があって原州都督・霊武道行軍大総管へ左遷された。
- 張同休は岐山丞、張昌儀は博望丞へ貶された。
- 韋安石は張易之らの罪を上奏し、唐休璟とともに鞫問を命じられたが、結末を見る前に政変となる。
- 韋安石は揚州刺史を検校し、唐休璟は幽営都督・安東都護を兼ねた。
- 出発に際して、唐休璟はひそかに太子へ、二張は寵を恃んで不臣であり、必ず乱を起こすから備えるべきだと告げた。
- 姚元崇は、相王に仕えている自分が兵馬を司るのは不適切で、王に益しない恐れがあるとして辞退した。
- この頃、突厥の叱列元崇がいたため、太后は姚元崇に字の「元之」を用いさせた。
- 黙啜との和親が成立したので、長く拘留されていた武延秀がようやく帰国した。
秋から冬 張柬之・房融・韋承慶の入相
- 九月、姚元之は霊武道行軍大総管、さらに霊武道安撫大使となった。
- 出発にあたり、太后が外朝の官で宰相に堪える者を問うと、姚元之は張柬之こそ沈着で謀があり、大事を断ずる才がある、老齢だからこそ早く用いるべきだと答えた。
- 十月、張柬之が同平章事となった。この時すでに八十近かった。
- 韋嗣立は魏州刺史を検校したまま残任。
- 房融も同平章事となった。
- 太后は宰相に員外郎に堪える者を各自推薦させた。韋嗣立は岑羲を推したが、その伯父岑長倩の罪累を惜しんだ。
- 太后は、才があるならそれが何の妨げになるかと言い、岑羲を天官員外郎に任じた。これにより、連坐で抑えられていた者たちにも登用の道が開け始めた。
- 十一月、韋承慶が同平章事となった。
- 李嶠は地官尚書へ出されて宰相を罷めた。
十二月 新官停止・太后の病重し
- 大足以来に新設された官はすべて停止された。
- 韋嗣立も罷められて成均祭酒となり、魏州刺史検校のみを兼ねた。兄の韋承慶が入相したためである。
- 太后は長生院に病臥し、宰相でさえ数か月も拝見できず、張易之・張昌宗だけが側近くに仕えた。
- 病が少し軽くなると、崔玄暐は、皇太子と相王はいずれも仁明孝友で湯薬も安心して任せられるから、宮禁という重地に異姓を出入りさせるべきではないと奏した。
- 太后はその厚意は認めたが、実行しなかった。
- 張易之兄弟は、太后の病篤く、自分たちに禍が及ぶのを恐れ、党与を引き入れて密かに備えを固めた。
- そのため、飛書や張り紙で二人の謀反を告げる者がたびたび現れたが、太后は取り上げなかった。
年末 張昌宗の占相事件
- 辛未、許州の楊元嗣が、張昌宗はかつて術士李弘泰を呼んで相を占わせ、弘泰が天子の相があると言い、定州に仏寺を造れば天下の心が帰すると勧めたと告発した。
- 太后は韋承慶・崔神慶・宋璟に鞫問を命じた。
- 韋承慶と崔神慶は、張昌宗はすでに自ら奏聞しているから自首として減免できる、李弘泰だけを妖言の罪で処罰すべきだとした。
- しかし宋璟と封全禎は、張昌宗ほどの寵臣がなお術士に帝王の相を占わせるのは、何を求めていたのか明らかであり、もし妖妄と思ったなら即座に有司へ送るべきだった、奏聞したといっても禍心を包み隠したにすぎず、法では斬罪・破家に当たると主張した。
- 太后はなかなか応じず、いったん調査停止を命じた。
- 左拾遺李邕も、宋璟の奏は社稷安定のためであって私のためではないから、これを採用すべきだと進言したが、太后は聞かなかった。
- さらに宋璟を揚州・幽州・隴蜀へ外任の使いに出そうとしたが、宋璟は、中丞は軍国の大事でもないのに出使すべきではないと拒み、結局従わなかった。
- 桓彦範も上疏して、張昌宗は無功にして寵を受け、禍心を包蔵しており、これを赦せば天命を得たと自負して乱を養うことになると強く論じた。
- 崔玄暐もたびたび同様に進言し、法司に罪を議させた。弟の崔昪は大辟相当と判じた。
- 宋璟はなおも張昌宗の収監を求め、ついには太后もこれを許した。張昌宗が御史台に送られると、宋璟は庭に立って厳しく取り調べた。
- しかし事が終わらぬうちに、太后は中使を送り、特別に赦してしまった。
- 宋璟は、先にこの小人の頭を打ち砕かなかったのが残念だと嘆いた。太后は張昌宗に宋璟へ謝罪に行かせたが、宋璟は会おうとしなかった。
冤獄の雪冤
- 以前から李嶠・崔玄暐は、武周革命の初めには逆節が多かったため、刻薄な吏が酷法をほしいままにし、周興らにより多くの家が破られたので、その人々の冤罪を雪ぐべきだと奏していた。
- 桓彦範も前後十度にわたり上表してこれを論じた。
- この年、太后はついにこれを受け入れ、周興らが関わった破家の事件の多くが赦免・雪冤された。