資治通鑑唐紀二十三 則天順聖皇后 長安 元年 701年
正月 武挙の創設
- 初めて武挙が設けられた。射術・馬槍・歩射・体格・言語・挙重などによって武人を選抜する制度であった。
春から夏 突厥の侵攻と防衛体制
- 突厥が塩州・夏州を寇掠した。
- 三月、突厥は石嶺を破って并州に侵入した。
- 薛季昶が山東防禦軍大使となり、滄・瀛・幽・易・恒・定などの諸州軍を節度した。
- 四月、張仁愿が幽州刺史として幽・平・媯・檀の防衛を専管し、薛季昶と協同して突厥に備えた。
五月 蘇安恒の再諫
- 蘇安恒は再び上疏し、天下は高祖・太宗以来の唐の天下であり、太后は唐の旧基に依って位を保っているにすぎないと論じた。
- 皇太子はすでに年徳ともに充実しているのに、太后が宝位に執着し、母子の恩を忘れているのは宗廟と高宗陵に対して顔向けできないことだと強く諫めた。
- 人心も天意も李家に帰しており、自分は一朝の命を惜しまず国の安寧を願うのみだと述べた。
- 太后はこれにも罪を加えなかった。
- 相王が并州牧・安北道行軍元帥となり、魏元忠が副将となった。
夏六月 留守人事
- 神都留守の韋巨源が召還され、李嶠がその後任となった。
秋七月 張昌宗封王請願
- 突厥が代州を侵した。
- 張昌宗兄弟の権勢は朝野を傾けていた。
- 八月、太子・相王・太平公主がそろって張昌宗を王に封ずるよう上表したが、太后は許さなかった。
- しかし重ねて請願があると、鄴国公の爵を与えた。
- また、揚州・豫州・博州の余党を告発しても一切取り上げず、内外の官司もその件を取り扱ってはならないと命じた。
九月 日食・対外情勢・唐休璟の評価
- 朔日に日食があり、神都では既食が鉤のように見えた。
- 突厥が忻州を寇した。
- 吐蕃は論彌薩を派遣して和を求めた。
- 太后は武三思らを大谷道方面の主将に任じ、また相王旦を并州道元帥として突厥討伐を図ったが、結局出兵は行われなかった。
- 論彌薩を麟徳殿で宴し、その席に入朝していた唐休璟も列した。
- 論彌薩は唐休璟を何度も見つめたので、太后が理由を問うと、洪源の戦いでこの将軍が猛く無敵だったから見覚えておきたいのだと答えた。
- 太后は唐休璟を右武威・金吾二衛大将軍に抜擢した。
- 唐休璟は碣石以西、四鎮を越えるまでの広い辺地の山川・要害に精通していた。
冬十月から十二月 顧琮の死・吐蕃・冤獄の再審・北庭都護府
- 顧琮が薨じた。
- 吐蕃の賛普が一万余で茂州を侵したが、都督陳大慈が四戦全勝し、千余の首級を挙げた。
- 監察御史魏靖は、来俊臣の姦悪がすでに明らかになった以上、彼が仕立てた大獄を詳しく再審し、冤濫を伸ばすべきだと上疏した。
- 太后は蘇頲に旧獄の再審を命じ、多くの冤罪が雪がれた。
- 太后は南郊を祀り、天下に赦を行った。
- 魏元忠が安東道安撫大使となり、李多祚・薛訥・駱務整が副えられた。
- 北庭都護府が庭州に置かれた。
- 張循憲は河東採訪使として地方を巡察していたが、疑事を裁けず苦しみ、かつて平郷尉だった張嘉貞を呼んで意見を求めた。
- 張嘉貞の論理は明快で、奏文まで起草したので、張循憲がその功を太后に報告すると、太后は自ら人材を進めるべきだとして、張嘉貞を監察御史に抜擢し、張循憲も司勲郎中に進めた。