資治通鑑唐紀二十三 則天順聖皇后 大足 元年 701年
春正月 改元
- 成州で仏の足跡が現れたとして、改元して大足元年とした。
二月 李懐遠の入相
三月 張錫の失脚と王求礼の諫言
- 張錫は人事に関する秘密や宮中の言葉を漏らし、多額の賄賂も受けていたとして死刑相当になったが、刑場で命を許され、循州へ流された。
- 蘇味道も同じく獄に下されたが、張錫が下獄中も三品院で平時同然の待遇を受けたのに対し、蘇味道は徒歩で繋所に赴き、地に席して粗食に甘んじたため、太后はその態度を聞いて赦し、官位に戻した。
- この月、大雪が降った。蘇味道はこれを瑞祥として百官を率いて賀そうとしたが、殿中侍御史王求礼が、三月の雪は災異であって、もしこれを瑞とするなら臘月の雷まで瑞とするのかと制した。
- 蘇味道は従わず賀礼に出たが、王求礼だけは拝賀せず、春気が行き渡る時期に雪が降るのは災害であり、これを瑞と称える者は阿諛の士だと直言したため、太后は朝を罷めた。
- さらに三本脚の牛が献上されると、宰相たちはまた吉兆として賀したが、王求礼は異常なものは妖異であり、三公が君を支える鼎の脚が正しくないことの象徴だと公言し、太后を憂えさせた。
夏五月 北辺と宰相追加
- 太后は三陽宮へ行幸した。
- 魏元忠が霊武道行軍大総管となって突厥に備えた。
- 顧琮が同平章事となった。
六月 李迥秀の入相
- 李迥秀が同平章事となった。
- 李迥秀は非常に孝で、母がもと微賤であったことから、妻の崔氏が侍女を叱る声を母に聞かせて不快にさせたため、ただちに妻を離縁した。
- 周囲は、その過失は七出の法にも当たらないのに厳しすぎると言ったが、李迥秀は、妻を迎えたのは親を養うためであって、親の顔色を害する以上留めておけないと答えた。
秋 帰還・突厥の侵攻・蘇安恒の上疏
- 七月、太后は宮中に還った。
- 李懐遠は罷められて秋官尚書となった。
- 八月、突厥の黙啜が辺境を侵したため、相王が天兵道元帥となり諸軍を統べて討つことになったが、出兵前に敵は退いた。
- 武邑の蘇安恒が上疏し、太后は先帝の付託と嗣子の譲りによって位につき、すでに二十年になるのだから、ここで皇太子に位を譲って自らは安んずるべきだと説いた。
- また、武三思ら武氏諸王は千秋万歳の後には不都合を生むので、公侯に降して閑職に任じるべきこと、李氏の皇孫たちに封土を与えて藩屏とすべきことも提言した。
- 太后は彼を召して慰撫したが、意見は用いなかった。
九月 重潤・永泰郡主・武延基の死
- 太后が高齢となり、政事を張易之兄弟に多く任せるようになると、邵王重潤、その妹の永泰郡主、婿の魏王武延基がそのことをひそかに議論した。
- 張易之がこれを太后に訴え、太后は三人に自殺を強いた。
冬十月 入関と長安改元
- 相王が左右羽林衛大将軍の事を知ることになった。
- 太后は西へ入関し、京師に着いた。
- 天下に赦があり、ここで改元して長安元年となった。
十一月 大明宮復称と崔玄暐・郭元振
- 含元宮は再び大明宮と改称された。
- 崔玄暐は廉直で、権門への請託をしなかったため執政に嫌われ、文昌左丞へ移されたが、太后は吏部令史たちがその異動を祝っていると聞き、これでは姦貪が盛んになると考え、すぐ天官侍郎に戻して褒賞した。
- 郭元振が凉州都督・隴右諸軍大使となった。
- 彼は南の峡口に和戎城、北の磧中に白亭軍を置いて要地を押さえ、州境を千五百里にまで広げた。以後、突厥・吐蕃の侵入は城下にまで及ばなくなった。
- また、甘州刺史李漢通に屯田を開かせ、水陸の利を尽くして糧食を豊かにしたため、凉州では穀価が大きく下がり、軍糧は数十年分蓄えられた。
- 郭元振は異民族にも中華の民にも威信を持ち、五年間の統治で治安も非常によくなった。
十二月 記事なし
- この月は、突厥の掠奪や北辺対策の余波はあったが、新たな大事件の記載はない。