資治通鑑唐紀二十三 則天順聖皇后 久視 元年 700年
秋七月 契丹俘虜の献上と論功行賞
- 契丹討伐で得た俘虜が含樞殿で献上された。
- 武季楷固はその功により左玉鈐衛大将軍・燕国公に任じられ、武氏の姓を賜った。
- 太后は群臣を集めて宴を開き、狄仁傑に功労を賞そうとしたが、狄仁傑はこれは天子の威徳と将帥の尽力によるもので、自分の功ではないとして固く辞退した。
閏七月 還宮と宰相人事
- 車駕は三陽宮から洛陽宮へ戻った。
- 張錫が鳳閣侍郎同平章事となった。
- 李嶠は成均祭酒へ出されて政務から外された。張錫が李嶠の舅であったため、縁故を避けた措置である。
吐蕃の涼州侵攻と唐休璟の勝利
- 吐蕃の将・麴莽布支が涼州に侵入し、昌松を包囲した。
- 隴右諸軍大使の唐休璟が洪源谷で迎え撃った。彼は敵将が新任で軍事に未熟だと見抜き、自ら先頭に立って突撃した。
- 六度戦ってすべて勝利し、吐蕃軍を大きく破って、首級二千五百余を挙げ、副将二人を捕えて帰還した。
楊素一族への処分
- 尚食奉御の楊元禧はかつて張易之の意に逆らったことがあり、張易之は太后に対して、楊元禧らは隋の逆臣・楊素の一族であり、宮中に仕えるべきではないと訴えた。
- 太后はこれを容れ、楊素およびその兄弟の子孫は京官に任じないと定めた。
- 楊元亨は睦州刺史、楊元禧は貝州刺史に左遷された。
- 史臣は、過去の逆臣の罪をその子孫にまで及ぼすのは、当座の愛憎に基づく口実にすぎないと批判している。
吐蕃対策と大仏造営の中止
- 魏元忠が隴右諸軍大使となり、吐蕃討伐を命じられた。
- 太后は大仏を造ろうとし、天下の僧尼に毎日一銭ずつの負担を課して工費に充てようとした。
- 狄仁傑は上疏して諫め、寺院はすでに宮城をしのぐほど壮大であり、造営費は天から来るのではなく民から出るのだと論じた。さらに、寺院が乱立して民間を圧迫していること、梁の武帝のように仏教を厚く信じても国難は救えなかったこと、大像一つ造るだけでも莫大な費用と労役がかかること、近年の水旱や辺境不安の中では到底許されないことを説いた。
- 太后はこれを受け入れ、造仏事業を中止した。
西突厥阿悉吉薄露の反乱
- 西突厥の阿悉吉薄露が叛き、田揚名・封思業が討伐に派遣された。
- 軍が碎葉に至ると、薄露は夜に城外で掠奪して退き、追撃した封思業は逆に敗れた。
- その後、田揚名は西突厥の斛瑟羅の兵を引いて攻城したが、十余日たっても落とせなかった。
- 九月、薄露は偽って降伏し、封思業に誘い出されて斬られ、その配下も捕えられた。
狄仁傑の死とその人材登用
- 太后は狄仁傑を深く信任し、群臣もこれに及ばず、しばしば「国老」と呼んで名を避けた。
- 狄仁傑は廷上で率直に諫争し、太后もしばしばこれを受け入れた。
- 老病を理由に引退を願っても許されず、拝礼さえ免じられ、宿直も軍国の大事以外は煩わせないよう配慮された。
- 辛丑、狄仁傑が薨ずると、太后は涙を流して「朝堂が空になった」と嘆き、以後大事に決断できないたびにその死を惜しんだ。
- 狄仁傑は生前、張柬之を宰相の器として薦め、姚元崇・桓彦範・敬暉らも推挙していた。これらの人々は後に名臣となった。
- 狄仁傑は「賢者を薦めるのは国のためであって私のためではない」と言った。
- かつて魏州刺史として善政を行い、生祠まで建てられたが、のちにその子・景暉が魏州司功参軍として貪暴であったため、人々はその像を壊した。これは狄仁傑の忠節と、子が父の名を損ねることへの戒めとして記される。
冬十月 北辺防備と暦制復旧
- 魏元忠は蕭関道大総管となり、突厥への備えを命じられた。
- 太后は、天授以来改められていた正月の扱いを戻し、夏正に従って一月を正月とした。
- 天下に大赦が行われた。
- 韋安石が鸞台侍郎同平章事となり、韋巨源は罷免された。
- 韋安石は武三思や張易之兄弟が権勢を振るう中でも、たびたび面前で彼らを折伏した。
- 宮中の宴で、張易之が蜀の商人宋覇子らを座に加えて賭博させると、韋安石は商賈のような卑賤の者をこの席に置くべきでないと奏して追い出し、座中を震え上がらせた。太后はその直言をねぎらった。
年末の出来事
- 太后は新安に行幸し、のちに還宮した。
- 十二月、突厥が隴右の諸監から馬一万余匹を奪って去った。
- なお屠殺禁止令はまだ解かれていなかったが、崔融は、礼制上も民生上も全面禁止は無理であり、貧民や屠者の生活を圧迫し、かえって恐喝や奸欺を増やすだけだと上言した。
- 戊午、屠禁は解かれ、祭祀にも従来どおり牲牢を用いることとなった。