資治通鑑唐紀二十二 則天順聖皇后 久視 元年 700年
正月 武三思・吉頊の失脚
- 戊寅、内史の武三思は罷められ、特進・太子少保となった。
- 吉頊も罪により安固尉へ左遷された。
- 太后はもともと吉頊の手腕を買って腹心としていたが、趙州の功をめぐって武懿宗と太后の前で争った際、吉頊は長身で弁舌鋭く、武懿宗は小柄で猫背だったため、ことさら懿宗を圧するように見えた。
- 太后は「吉頊は私の前でさえ諸武を見下す。後々、頼れるだろうか」と不快に思った。
- さらにある日、吉頊が古今の例を引いて長々と奏論すると、太后は怒って、自ら若き日、太宗の暴れ馬を鉄鞭・鉄撾・匕首で制すると申し出た話を持ち出し、「今日のお前など、私の喉を汚すほどの相手か」と威嚇した。
- 吉頊は汗を流して命乞いし、ようやく許された。
- 武氏諸王も、吉頊が太子に味方したことを恨み、弟の冒官の罪を摘発したため、これが左遷の決定打となった。
- 辞去の日、吉頊は召されて最後の進言をした。土をこねれば争いはないが、それを半分は仏、半分は天尊に作れば争いが起こる、と喩え、宗室と外戚が各々の分を守れば天下は安んじるが、すでに太子が立っているのに外戚が王のままであれば、後日に必ず争いが生じると警告した。
- 太后はそれを理解しつつも、「もう今さらどうしようもない」と答えるしかなかった。
臘月 皇孫の封立
- 辛巳、故太孫の李重潤を邵王、その弟の李重茂を北海王に封じた。
陸元方の罷免
- 太后が鸞台侍郎の陸元方に外の政情を尋ねたところ、陸元方は「大事は宰相として申し上げるが、細かな民間の話で聖聴を煩わせるべきではない」と答えたため、かえって意に逆らった。
- 庚寅、彼は司礼卿へ左遷された。
- もっとも陸元方は清慎な人物で、二度宰相となり、太后が任免をたびたび諮問しても、密封して答えるのみで決して漏らさなかった。
- 臨終の際には、上奏の草稿をすべて焼き、「私は人に対して陰徳が多い。子孫もまだ衰えまい」と語った。
斛瑟羅の西辺配置
- 西突厥の斛瑟羅が平西軍大総管となり、碎葉に鎮した。
狄仁傑・韋巨源の昇進
- 丁酉、狄仁傑が内史となった。
- 庚子、文昌左丞の韋巨源が納言となった。
冬から春 嵩山・汝州・告成への行幸
- 乙巳、太后は嵩山へ行幸した。
- 翌正月丁卯には汝州の温泉に赴き、戊寅には神都を移して告成の石淙に三陽宮を造営した。
二月 豆盧欽望の再罷免
- 乙未、豆盧欽望は同鳳閣鸞台三品を罷められ、太子賓客となった。
三月 吐谷渾への可汗号授与
- 吐谷渾の青海王宣超に「烏地也抜勤忠可汗」の号が与えられた。
夏四月 三陽宮での避暑と狄仁傑の諫止
- 戊申、太后は三陽宮へ避暑に出た。
- その途中、胡僧が車駕を呼び止めて舎利埋葬の法会を見てもらおうとしたため、太后はいったん応じた。
- しかし狄仁傑が馬前にひざまずき、仏は夷狄の神であり、天下の主が身を屈して赴くべきものではない、しかも山道は険しく狭く、万乗の尊にふさわしくないと強く諫めた。
- 太后は途中で引き返し、「私の直臣たる気概を完成させてくれた」と狄仁傑を称えた。
五月 日食・改元・長生薬
- 己酉朔、日食があった。
- 太后は洪州の僧胡超に長生薬を合成させ、三年かけて完成したが、費用は甚大だった。
- これを服して病が少し癒えたため、癸丑に天下へ赦しを行い、元号を久視と改め、あわせて「天冊金輪大聖」の尊号をやめた。
六月 奉宸府への改組
- 控鶴監は奉宸府と改められ、張易之が奉宸令となった。
- 太后は内殿の宴でしばしば武氏諸王・張易之・張昌宗兄弟を引き入れ、飲酒・博戯・嘲笑にふけった。
- その実態を覆い隠すため、張氏兄弟に李嶠ら文士を従えて『三教珠英』を内殿で編纂させた。
- 武三思は、張昌宗は王子晋の後身だと奏上し、太后は昌宗に羽衣を着せ、笙を吹かせ、木鶴に乗せて庭に出し、文士たちに詩を作らせてこれを美化した。
- さらに多くの美少年が奉宸内供奉として選ばれた。
朱敬則の諫言
- 右補闕の朱敬則は、太后にはすでに張易之・張昌宗がいるのだから十分であり、近ごろは侯祥らまで自ら売り込んで奉宸内供奉を求め、無礼無恥が朝廷に満ちていると諫めた。
- 太后は「そなたが率直に言ってくれなければ知らなかった」とねぎらい、彩百段を賜った。
張昌儀と売官
- 張易之・張昌宗兄弟は豪奢を競い合い、その弟の張昌儀は洛陽令として請託を断らなかった。
- ある朝、薛姓の選人が金五十両と申状を馬上で差し出して賄賂を贈ると、張昌儀はこれを受け取って朝堂で張錫に渡した。
- 数日後、張錫がその申状を紛失して張昌儀に問い返すと、昌儀は「姓が薛の者に与えればよい」と乱暴に言い放った。
- 張錫は恐れ、銓選に来ていた薛姓六十余人を全員留めて官を与えるしかなかった。
李楷固・駱務整の赦免と契丹余党平定
- 契丹の李楷固は投索と騎射、槊の扱いに優れ、陣中を猛禽のように突き抜ける勇将で、黄麞谷の戦いでは張玄遇・麻仁節らを索でからめ取ったことで知られていた。
- 駱務整もまた契丹の将で、たびたび唐軍を破った。
- だが孫万栄の死後、二人はともに唐へ降った。
- 有司は、降るのが遅かったとして一族誅滅を求めたが、狄仁傑は、彼らは並外れた驍勇の士であり、仕える主に尽くしたのなら、唐に用いれば必ず全力を尽くすと説いて赦免を請うた。
- 親しい者たちは身を危うくすると止めたが、狄仁傑は「国に利あらば、自分の身を計るべきではない」と退かなかった。
- 太后はその言を容れ、李楷固を左玉鈐衛将軍、駱務整を右武威衛将軍とし、契丹残党討伐に用いた。
- 二人は期待どおり働き、契丹余党はことごとく平定された。