資治通鑑唐紀二十一 則天順聖皇后 長寿 一年 632年

正月 人材の大量登用と政務の実権集中

  • 正月、太后は各地の存撫使が推薦した人々を引見し、賢不肖を問わず広く抜擢した。高位の者には鳳閣舍人・給事中を試し、次位の者には員外郎・侍御史・補闕・拾遺・校書郎などを試任させた。これにより、試官から一挙に中央官へ上がる風潮が始まり、世人はその濫用を皮肉った。
  • 推薦者の一人がこの人事を風刺したため、侍御史の紀先知がこれを捕えて朝政誹謗の罪に問おうとしたが、太后は「要は官吏が濫用しなければよい」として罪を許した。
  • 太后は官位と俸禄を広く配って人心を収める一方、不適任者はほどなく罷免し、ときに刑罰にも処した。賞罰を自ら握って天下を統御し、政務はほぼ太后一人から出て、判断も明敏であったため、当時の有力人材もまた競ってその下に集まった。
  • 寧陵丞の郭霸は追従によって太后に取り入り、監察御史に抜擢された。病床の魏元忠を見舞った際には、その糞を舐めて病状を占うような露骨な媚態を示し、魏元忠に激しく嫌悪された。

正月 楊執柔の登用と神都の外城築造

  • 戊辰、夏官尚書の楊執柔が同平章事となった。太后は母方の楊氏一族であることからこれを用いた。
  • かつて隋の煬帝が築いた東都には本格的な外城がなく、短い垣があるだけだったが、この年、鳳閣侍郎の李昭徳が外城の築造を始めた。

正月 来俊臣の大獄と狄仁傑らの救出

  • 来俊臣が、任知古・狄仁傑・裴行本・崔宣礼・盧献・魏元忠・李嗣真らに謀反の罪を着せた。
  • 以前、来俊臣は「一度の訊問で反を認めれば死罪を減ずる」とする特旨を得ており、これを利用して被告を誘導した。狄仁傑は拷問死を避けるため、ひとまず反を認めたが、来俊臣の部下から楊執柔を巻き込めと迫られると、柱に頭を打ちつけて拒んだ。
  • 侯思止は魏元忠を責め立てたが、魏元忠は屈せず、首が欲しいなら切ればよい、無理に反を認めさせるなと気丈に言い放った。
  • 狄仁傑は、暑さを口実に綿入れの中へ冤状を書き入れ、家人に渡させた。子の狄光遠がこれを持って上訴し、太后に届いた。
  • 来俊臣は「待遇は悪くなく、事実がなければ自白するはずがない」と弁明し、さらに偽の謝死表まで作成していた。だが、楽思晦の幼子もまた上訴し、「忠清で陛下の信任厚い臣を一人選び、その人の名で来俊臣に獄を作らせれば、誰でも反を認める」と訴えたため、太后はようやく疑い始めた。
  • 太后が狄仁傑らを引見して問いただすと、彼らは「認めなければ拷問で死んでいた」と答え、謝死表も偽作だったことが明らかになった。
  • そこでこの七家は死を免れたが、庚午、任知古は江夏令、狄仁傑は彭沢令、崔宣礼は夷陵令、魏元忠は涪陵令、盧献は西郷令へ左遷され、裴行本と李嗣真は嶺南へ流された。
  • 来俊臣と武承嗣は彼らの死刑をなお求めたが、太后は許さなかった。来俊臣が裴行本だけでも処刑すべきだと主張すると、秋官郎中の徐有功がこれに反対し、君主には生き返らせる恩があるのに、それを妨げるのは不当だと論じた。
  • 崔宣礼の甥の霍献可は、宣礼を殺さないなら自分は死をもって諫めるとして殿階に頭を打ちつけ、流血したが、太后は聞き入れなかった。霍献可はその傷を包頭の下からわざと見せ、忠節を示そうとした。

正月 薛謙光の選挙改革論

  • 甲戌、補闕の薛謙光が上疏した。今の選挙法は人々が推薦者探しや奔走競争に明け暮れ、才徳の実査が疎かになっていると批判した。
  • 文官は治績と能力を、武官は勇略を見て任用すべきであり、文章試験や弓射だけでは国家運営や敵撃破の適否は測れないと述べ、推薦者への賞罰を明確にするよう求めた。

正月 泉献誠の冤殺と宰相交代

  • 来俊臣は左衛大将軍の泉献誠に金品を求め、得られないと謀反の罪を着せて獄に下し、乙亥に絞殺した。
  • 庚辰、司刑卿で陝州刺史を検校していた李遊道が冬官尚書・同平章事となった。

二月 吐蕃・党項の帰附と袁智弘の入相

  • 己亥、吐蕃・党項の部落一万余りが内附し、十州に分置された。
  • 戊午、秋官尚書の袁智弘が同平章事となった。

四月 如意改元と殺生禁断

  • 丙申、天下に大赦して如意と改元した。
  • 五月、天下に屠殺と魚蝦の捕獲を禁じたが、江淮の旱魃と飢饉の中で食料採取まで妨げたため、飢死者が多く出た。

五月 張徳の密屠と杜粛の告発

  • 右拾遺の張徳は男子誕生を祝ってひそかに羊を殺し、同僚を招いて宴した。
  • 補闕の杜粛はこれを上表して告発したが、翌日太后は張徳を責めつつも、「祝い事や凶事は禁令の例外としてきた」とたしなめる程度に留め、むしろ密告した杜粛の表を示して羞恥を与えた。朝臣は皆、杜粛を嫌悪した。

六月 吐蕃系部族の帰附

  • 吐蕃側の酋長の曷蘇が部衆を率いて内附を願ったため、右玉鈐衛将軍の張玄遇が二万の精兵を率いて迎えに向かった。
  • だが曷蘇の計画が露見して本国側に捕らえられ、別部の酋長・昝捶が羌・蛮八千余を率いて帰附した。張玄遇はその部落を莱川州として編成し、帰還した。

六月 徐堅の慎刑論

  • 辛亥、万年主簿の徐堅が上疏した。近年、謀反事件では使者が事実を得次第その場で斬決できる制度になっているが、人命は重く、冤罪で一族を滅ぼす危険があるとして、必ず法に基づき再審・覆奏すべきだと主張した。
  • また、法官は慎重に選び、寛平で民に称賛される者を近く用い、苛酷で人望のない者は退けるべきだと説いた。

夏 李昭徳、武承嗣の専権を諫める

  • 夏官侍郎の李昭徳は密かに太后へ、魏王武承嗣の権勢が強すぎると諫めた。
  • 太后は甥だから腹心として任せていると言ったが、李昭徳は、子ですら父を簒弑する例があるのに甥ならなおさらであり、親王で宰相でもある武承嗣が君主並みの権を持てば、太后の天位は安泰でなくなると説いた。
  • 太后はこれを聞いてはっとし、初めてその危険に思い至った。

七月 宰相人事の大きな組み替え

  • 戊寅、武承嗣は特進・納言に転じ、武攸寧は冬官尚書、楊執柔は地官尚書となり、いずれも政事から外れた。
  • 崔元綜が鸞台侍郎、李昭徳が鳳閣侍郎、姚璹が文昌左丞、李元素が文昌右丞となり、崔神基とともに同平章事に任じられた。
  • 辛巳には、営繕大匠の王璿も夏官尚書・同平章事に加わった。

七月 李昭徳の剛直と酷吏抑制

  • 武承嗣は李昭徳を中傷したが、太后は「昭徳を任用してから安心して眠れるようになった。彼は私の労を代わってくれている」として退けた。
  • 酷吏が横行し百官が戦々恐々とする中、李昭徳だけは廷上で彼らの奸悪を弾劾した。
  • 太后は祥瑞を好んだが、白石に赤い文があるのを瑞兆として差し出されると、李昭徳は「この石に赤心があるなら、他の石はみな逆心なのか」と切り返し、周囲を笑わせた。
  • 亀の腹に「天子万万年」と丹漆で書いて献上した者があっても、李昭徳はこそげ落として法に付すべきと奏した。太后は悪意はないとして赦した。
  • また、太后が猫と鸚鵡を一緒に置いて百官に見せていたところ、猫が鸚鵡を食べてしまい、太后はひどく恥じた。

七月 酷吏政治への批判と部分的修正

  • 太后は垂拱以来、まず唐宗室と外戚を数百人、続いて大臣の家々を多数誅し、刺史・郎将以下に至っては数えきれないほどの者が処罰された。新任官が出るたび、宮中の下婢たちは「また鬼に打たれる者が来た」とささやいた。
  • 監察御史の厳善思は公正で直言を恐れず、太后も密告の多さにうんざりしていたため、彼に審問を命じた。厳善思は虚偽自白した八百五十余人を摘発して放免し、羅織の党を大いに挫いた。だが、逆に彼自身が陥れられて驩州へ流された。
  • 後に太后はその冤を知り、再び召して渾儀監丞に任じた。厳善思は名を譔といい、字で通称された。
  • 右補闕の朱敬則は、革命達成後はもはや刑名を重んじる時ではなく、秦漢の得失に鑑みて酷法と密告制度を改めるべきだと上疏し、羅織・朋党・讒言を断つよう求めた。太后はこれを賞して帛を賜った。
  • 侍御史の周矩も拷問の惨状を詳しく述べ、囚人の多くは楚毒に耐えきれず偽自白するだけだとして、緩刑と仁政を訴えた。太后はその意見をある程度採り、制獄はやや下火になった。

九月 長寿改元と北都設置

  • 丙戌、太后は歯が抜けても再び生えたとして、これを瑞とする詔を出した。
  • 庚子、則天門で天下に大赦し、長寿と改元した。さらに九月を社の月と定めた。
  • 并州に北都を置いた。

九月 王弘義の羅織

  • 癸丑、李遊道・王璿・袁智弘・崔神基・李元素・孔思元・任令輝らが王弘義に陥れられ、嶺南に流された。
  • 左羽林中郎将の来子珣も罪に坐して愛州へ流され、ほどなく死んだ。

冬十月 王孝傑の西域回復

  • かつて劉審礼に従って吐蕃と戦い捕虜となっていた王孝傑は、長く吐蕃にいたためその実情に通じていた。
  • 西州都督の唐休璟が龜茲・于闐・疏勒・碎葉の四鎮回復を請うと、太后は王孝傑を武威軍総管、阿史那忠節を副えて派遣した。
  • 丙戌、王孝傑は吐蕃軍を大破し、四鎮を奪回したうえで、龜茲に安西都護府を置き、兵を駐屯させた。