資治通鑑唐紀二十一 則天順聖皇后 長寿 二年 633年

正月 劉妃・竇徳妃の殺害

  • 壬辰朔、太后は万象神宮で祭祀を行い、魏王武承嗣を亜献、梁王武三思を終献とした。神宮の楽舞は太后自作で、舞人は九百人にも及んだ。
  • 太后に寵愛された宮婢の団児が、皇嗣に恨みを抱いてその妃の劉氏と徳妃竇氏を呪詛の嫌疑で讒言した。
  • 癸巳、二妃は嘉豫殿で太后に朝見したのち、同日に殺された。遺体は宮中にひそかに埋められ、その場所も知らされなかった。竇徳妃は後の玄宗の母である。
  • 皇嗣は太后の意に逆らうのを恐れて何も言えず、太后の前でも平静を装った。
  • 団児はさらに皇嗣そのものを害そうとしたが、その企てを告げる者があって、太后は逆に団児を誅した。

正月 竇孝諶家の冤獄と徐有功

  • 密告者たちは功賞目当てに奴婢をそそのかし、主人を訴えさせるのが常であった。徳妃の父・竇孝諶の家でも、奴が妖異を作ってその母・龐氏を脅した。
  • 龐氏がひそかに祈祷しようとしたことから事件化し、監察御史の薛季昶が取調べたが、徳妃と共謀して呪詛したと誣告した。太后は薛季昶を給事中に抜擢し、龐氏は斬罪とされた。
  • 龐氏の子・竇希瑊が侍御史の徐有功に冤を訴えると、徐有功は刑の執行停止を命じて上奏し、無罪を論じた。
  • 薛季昶は逆に徐有功を「悪逆に与する」として告発し、法司は徐有功を絞罪相当と判断した。だが徐有功は少しも動揺せず、食事を終えると扇で顔を覆って眠った。
  • 太后が自ら呼び出して「近頃、放免しすぎではないか」と問うと、徐有功は「人を誤って出すのは臣下の小過、生を好むのは聖人の大徳」と答えた。太后は黙し、龐氏は死罪を減じられ、三子とともに嶺南流罪となり、竇孝諶も羅州司馬へ左遷された。徐有功は官を失った。

正月 時政記の開始と皇孫の降封

  • 戊申、姚璹が宰相に時政記を編ませて月ごとに史館へ送る制度を請い、許された。時政記はここから始まる。
  • 臘月丁卯、皇孫の成器を寿春王、成義を衡陽王、隆基を臨淄王、隆範を巴陵王、隆業を彭城王へと降封した。いずれも睿宗の子である。

春一月 婁師徳の入相とその人物

  • 庚子、夏官侍郎の婁師徳が同平章事となった。
  • 婁師徳は寛厚・清慎で、人に侮られても争わなかった。李昭徳にしばしば「田舎者」と罵られても笑って受け流した。
  • 代州刺史に赴く弟には、栄達が過ぎれば人の嫉みを招くので、唾を吐きかけられても拭わず、笑って受けよと諭した。怒りを正面から受け止めない処世である。

春一月 皇嗣周辺への弾圧と安金蔵

  • 甲寅、裴匪躬と范雲仙が私かに皇嗣へ謁した罪で、市で腰斬された。これ以後、公卿以下はみな皇嗣に会うことを禁じられた。
  • さらに皇嗣に異謀ありと告げる者が現れ、来俊臣がその側近を拷問した。誰も楚毒に耐えられず、自白に追い込まれようとしていた。
  • 太常の工人・安金蔵は、来俊臣が信じないなら自分の心を裂いて皇嗣の無実を示すと言い、佩刀で自ら胸を割いた。五臓が露出して血が地を覆ったため、太后は驚いて宮中へ運ばせ、医者に縫合させた。
  • 太后はその姿を見て、「自分の子は自ら弁明できず、汝にここまでさせた」と嘆き、来俊臣の追及を止めた。睿宗はこのため難を免れた。

二月 制度・風俗の変化

  • 老子の学習をやめさせ、今後は太后自作の『臣軌』を学ばせることになった。
  • 丙子、新羅王金政明が死去し、その子の理洪を立てる使者を送った。
  • 乙亥、民間での錦の使用を禁じた。
  • 侯思止がひそかに錦を蓄えていたため、李昭徳がこれを摘発し、朝堂で杖殺した。

二月 嶺南流人の大量虐殺

  • 嶺南の流人が謀反を企てているとの告発があり、司刑評事の万国俊が監察御史を兼ねて現地調査に派遣された。
  • 万国俊は広州で流人を集め、偽の勅命を称して自尽を迫った。従わぬ者は水辺へ追い込み、一朝に三百余人を斬殺したうえで、反状をでっちあげて帰朝した。
  • さらに諸道の流人も怨望を抱いて反しようとしていると進言したため、太后は喜んで彼を昇進させ、劉光業・王徳寿・鮑思恭・王大貞・屈貞筠らも各道へ派遣した。
  • 彼らは競ってこれに倣い、劉光業は七百人、王徳寿は五百人、他の者も少なくとも百人以上を殺した。遠年の雑犯流人まで巻き添えとなった。
  • 太后もさすがに濫殺を悟り、六道の流人でまだ生き残っている者とその家族には、郷里への帰還を許した。万国俊らも後には病死・流罪などで相次いで零落した。

夏四月 蘇幹の死

  • 来俊臣は、冬官尚書の蘇幹がかつて琅邪王李沖と通謀したと誣告し、乙未にこれを殺した。

五月 水害

  • 癸丑、棣州で黄河が氾濫した。

秋九月 尊号「金輪聖神皇帝」

  • 丁亥朔、日食があった。
  • 魏王武承嗣ら五千人が上表し、太后に「金輪聖神皇帝」の尊号を奉った。
  • 乙未、太后は万象神宮でこれを受け、天下に大赦した。金輪など七宝を作らせ、朝会ごとに殿庭に陳列させた。
  • 庚子、先祖三代をさらに追尊した。
  • 辛丑、姚璹は司賓卿へ転じて政事を離れ、豆盧欽望が内史、韋巨源が同平章事、陸元方が鸞台侍郎・同平章事となった。