資治通鑑唐紀二十一 則天順聖皇后 延載 元年 634年

正月 突厥黙啜の即位と侵攻

  • 丙戌、太后は万象神宮で祭祀を行った。
  • 突厥の可汗・骨篤禄が死去し、その弟の黙啜が自立して可汗となった。
  • 臘月甲戌、黙啜が霊州へ侵攻した。室韋も反したが、右鷹揚衛大将軍の李多祚がこれを破った。

春一月 婁師徳の営田使任命

  • 婁師徳が河源等軍の検校営田大使に任じられた。

二月 西方での戦勝

  • 武威道総管の王孝傑が、吐蕃の勃論贊刅や突厥の俀子らを冷泉・大嶺で破り、それぞれ三万余を斬った。
  • 碎葉鎮守使の韓思忠も、泥熟俟斤ら一万余を破った。

二月 三月 黙啜討伐準備と中止

  • 庚午、僧の薛懐義が代北道行軍大総管に任じられ、黙啜討伐を命じられた。
  • 三月甲申、蘇味道が鳳閣侍郎・同平章事、李昭徳が検校内史となった。
  • 薛懐義は朔方道行軍大総管に改められ、李昭徳を長史、蘇味道を司馬として諸将を率いることになったが、出兵前に敵が退き、計画は中止となった。
  • 李昭徳は以前、議事で薛懐義の意に沿わず、懐義から鞭打たれて謝罪したことがあった。

四月 王孝傑の入相

  • 壬戌、夏官尚書で武威道大総管の王孝傑が同鳳閣鸞台三品となった。

五月 「越古金輪聖神皇帝」と改元

  • 魏王武承嗣ら二万六千余人が、さらに尊号を上って「越古金輪聖神皇帝」とした。
  • 甲午、太后は則天門楼でこれを受け、大赦して延載と改元した。

六月 西南蛮の帰附

  • 以前、監察御史の裴懐古が西南蛮を安撫していたが、癸丑、永昌蛮の酋長・薫期が部落二十余万戸を率いて内附した。

夏から秋 妖妄の僧尼・方士の重用

  • 河内の老尼が神都の麟趾寺に住み、嵩山の韋什方らとともに妖妄で人々を惑わせた。
  • 老尼は自らを浄光如来と称し、未来を知ると豪語した。韋什方は呉の赤烏年間から生きていると言い、また一人の胡人老者も五百歳だと称した。
  • 太后は彼らを深く信じ、韋什方には武姓を賜った。
  • 秋七月癸未、韋什方は正諫大夫・同平章事に任じられたが、八月には山へ帰りたいと願い、罷免されて去った。

八月 姚璹・楊再思らの入相

  • 戊辰、王孝傑が瀚海道行軍総管となり、なお朔方道大総管薛懐義の節度を受けた。
  • 己巳、姚璹が納言、楊再思が鸞台侍郎、杜景儉が鳳閣侍郎となり、いずれも同平章事となった。

八月 軍資調達案への反発

  • 豆盧欽望は、京官九品以上に二か月分の俸を納めさせて軍費に充てるよう請願した。
  • しかも転牒だけ回して百官には事情を知らせず、ただ拝表だけさせた。
  • 拾遺の王求礼はこれに抗議し、高禄の高官ならまだしも、薄給の下級官人から事情も告げず奪うのは詐取に等しいと批判した。太后の前でも軍国に備蓄があるのに、なぜ九品官の俸を奪うのかと直言したため、この案は立ち消えとなった。

八月 天枢建造の開始

  • 戊寅、崔元綜が罪を得て振州へ流された。
  • 武三思は四夷の酋長を率い、銅鉄で巨大な天枢を端門外に建て、唐を退け周を称える功徳銘を刻もうと請願した。
  • 姚璹が督作使となったが、諸胡の献金だけでは銅鉄が足りず、民間の農具まで取り上げて材料に充てた。

九月 日食と来俊臣の一時失脚

  • 壬午朔、日食があった。
  • 来俊臣は贓罪により同州参軍へ左遷され、王弘義も瓊州へ流された。
  • しかし来俊臣は偽って勅命を称し帰還しようとしたところ、漢北で胡元礼に見破られ、杖殺された。

秋 李昭徳失脚

  • 内史の李昭徳は太后の信任を恃んで専権的に振る舞い、人々の怨みを買っていた。
  • 丘愔や鄧注が、昭徳は独断専行し、権勢は身に余ると上疏・著述で攻撃した。鳳閣舍人の逢弘敏がこれを奏上したため、太后は昭徳を疎んじるようになった。
  • 壬寅、李昭徳は南賓尉へ左遷され、まもなく死罪を免じて流罪に改められた。
  • 太后が季節外れに咲いた梨花を瑞と見せると、杜景儉だけは、草木が黄落する時に咲くのは陰陽不調であり、咎は臣らにあると率直に詫びた。太后は「真の宰相だ」と称えた。

冬十月 李元素・周允元の登用と嶺南経略

  • 壬申、李元素が鳳閣侍郎、周允元が検校鳳閣侍郎となり、いずれも同平章事となった。
  • 嶺南の獠が反したため、容州都督の張玄遇が桂・永等州経略大使として討伐に向かった。