資治通鑑唐紀二十 則天順聖皇后 天授 二年 631年

正月・尊号受領と武氏太廟

  • 正月癸酉朔、太后は万象神宮であらためて尊号を受けた。尊号の恒例化はここに始まり、後世の皇帝にも影響した。
  • 旗幟は赤を尚ぶこととした。
  • 甲戌、神都に社稷を改めて置いた。
  • 辛巳、武氏の神主を太廟に納め、長安の唐太廟は享徳廟と改称された。四時の祭祀では高祖以下三帝だけを享し、残る四室は閉ざされて祀られなくなった。
  • さらに長安の崇先廟を崇尊廟と改めた。
  • 乙酉の冬至には明堂で昊天上帝を大饗し、百神を従祀、武氏祖宗を配し、唐の三帝もあわせて配享した。

李嗣真の上疏

  • 御史中丞で知大夫事の李嗣真は、酷吏が横行し、告発は虚実入り交じって君臣離間を招いていると上疏した。
  • 古くは獄が成れば公卿が参聴し、王が三度赦免を考えてから刑を行ったのに、今は単車の使者が出向いてその場で推問し、秋官や門下の再審を経ずに殺生の権が臣下へ移っていると批判した。
  • だが太后は聞き入れなかった。

春一月〜二月・封嶽請願と周興の最期

  • 饒陽尉の姚貞亮ら数百人が「上聖大神皇帝」の尊号を請うたが、太后は許さなかった。
  • 来子珣は尚衣奉御の劉行感兄弟を謀反と誣告し、いずれも誅された。
  • 春一月、地官尚書の武思文と朝集使二千八百人が中嶽封禅を請願した。
  • 己亥、唐の興寧陵・永康陵・隠陵の署官を廃し、守戸だけを最小限残した。
  • 左金吾大将軍の丘神勣は罪を得て誅された。
  • 納言の史務滋は、来俊臣とともに劉行感獄を取り調べたが、来俊臣に「行感と親しく、反状を隠そうとした」と逆に誣告され、太后の命で来俊臣に併せて調べられることを恐れて自殺した。
  • また、周興が丘神勣と通謀したと告げる者があり、太后は来俊臣に周興を取り調べさせた。
  • 取調べの最中、来俊臣は「囚人が自白しない時はどうするか」と周興に問うた。周興は「大甕を炭火で囲み、中へ入れれば何でも白状する」と答えた。
  • すると来俊臣はその場で甕と火を用意し、「内状がある、兄が入ってくれ」と言ったので、周興は恐れ入って即座に罪を認めた。
  • 本来死罪だったが、太后は命だけは助けて二月に嶺南へ流し、途中で仇家に殺された。
  • 周興・索元礼・来俊臣はいずれも数千人を殺したが、索元礼はとくに残虐で、太后も人望回復のために彼を殺した。

二月〜四月・武氏陵号・仏教優先

  • 千乗王武攸暨は定王に徙された。故太子賢の子・光順は義豊王に立てられた。
  • 甲子、武氏祖先の墓に徳陵・喬陵・節陵・簡陵・靖陵・永陵の名を与え、章徳陵を昊陵、明義陵を順陵と改めた。
  • あわせて、かつて太宗に誅された李君羡の官爵を追復した。
  • 四月壬寅朔、日食があった。
  • 癸卯、革命を開いたのは仏教だとして、道教より仏教を上位に置く制を出した。
  • 建安王攸宜を長安留守とし、丙辰には大鐘を鋳て北闕に置いた。

夏〜秋・吐蕃出兵中止と都への人口移送

  • 五月、岑長倩が武威道行軍大総管となり吐蕃討伐を命じられたが、中途で召し返され、軍はついに出なかった。
  • 六月、格輔元が地官尚書、楽思晦・任知古とともに同平章事となった。
  • 秋七月、関内から数十万戸を洛陽へ移して人口を充実させた。
  • 八月戊申、武攸寧が納言を罷め、欧陽通が司礼卿として納言事を兼ねた。

八月〜九月・来俊臣の専横

  • 庚申、張虔勗が殺された。来俊臣がその獄を扱い、張虔勗が徐有功に直訴すると、来俊臣は怒って衛士に刀で乱斫させ、首を市にさらした。
  • 義豊王光順、嗣雍王守礼、永安王守義、長信県主らは武姓を与えられ、睿宗の諸子とともに宮中へ幽閉され、十余年も門を出られなかった。
  • 甲子、武思文が徐敬業と通じた旧事を理由に嶺南へ流され、復た徐姓に戻された。
  • 九月乙亥、岐州刺史の雲弘嗣が殺された。来俊臣はその獄で一つの供述も聞かぬまま先に首を斬り、あとから供述調書を偽造して奏上した。張虔勗の件も同様だった。
  • これらがすべて勅旨どおりとされたため、天下は口をつぐんだ。

九月〜十月・狄仁傑入相と皇嗣論争

  • 傅遊藝は湛露殿に登る夢を見たと親しい者に語り、その者が密告したため、壬辰に下獄して自殺した。
  • 癸巳、建昌王武攸寧が納言に復し、狄仁傑は地官侍郎、裴行本は冬官侍郎としてともに同平章事となった。
  • 太后が狄仁傑に「汝南での善政は立派だった。讒言した者の名を知りたいか」と問うと、狄仁傑は「臣に過ちがあれば改めたい。過ちがないならそれで十分で、讒者の名は知りたくありません」と答え、太后は深く称賛した。
  • 先に張嘉福が洛陽人の王慶之ら数百人に上表させ、武承嗣を皇太子に立てよと請願させていた。
  • 岑長倩は皇嗣が東宮にいる以上この議論は不当だとして、上書者を厳しく責めて解散させるよう請うた。格輔元も固く反対したため、武氏一派の怒りを買った。
  • そのため岑長倩は吐蕃遠征を口実に外へ出され、到着しないうちに呼び戻されて制獄へ下された。武承嗣はさらに格輔元を讒言した。
  • 来俊臣は長倩の子・霊原を脅して、欧陽通ら数十人が共に謀反したと証言させた。欧陽通は五毒の責めを受けても一言も変えなかったが、来俊臣は供述書を偽造した。
  • 冬十月己酉、岑長倩・格輔元・欧陽通らは皆誅された。

王慶之の死と李昭徳の進言

  • 王慶之はたびたび太后に面会し、武承嗣を皇太子に立てるよう泣いて請願した。太后が「皇嗣は我が子だ。どうして廃せようか」と言っても引き下がらなかった。
  • 太后は鳳閣侍郎の李昭徳に命じて、王慶之を光政門外へ引き出させ、「この賊は我が皇嗣を廃して武承嗣を立てようとしている」と朝士に示し、撲殺させた。
  • その後、李昭徳は太后に対し、「天皇は陛下の夫、皇嗣は陛下の子である。天下は子孫へ伝えるべきで、姪を嗣とした例はない。もし承嗣へ渡せば、天皇は血食を絶たれる」と説いた。
  • 太后もこれをもっともだと感じた。李昭徳は李乾祐の子であった。

十月・楽思晦・李安静の死、狄仁傑の諫言

  • 壬辰、楽思晦と右衛将軍の李安静が殺された。李安静は太后の革命に際して百官がそろって勧進する中、一人だけ正色で拒んだ。来俊臣に謀反を問われても、「唐家の老臣だから殺すなら殺せ、謀反はない」と答え、ついに殺された。
  • 太学生の王循之が帰郷の休暇を願い出ると、太后は自らこれを許した。
  • 狄仁傑は、学生の休暇は丞や主簿の扱うべき事務にすぎず、天子自ら勅を出すべきではない、もし必要なら一律の制度として立てればよいと諫めた。
  • 太后はその意見を善しとした。