資治通鑑唐紀二十 則天順聖皇后 載初 元年 630年

春正月〜二月・宰相人事と殿試開始

  • 一月戊子、武承嗣が文昌左相、岑長倩が文昌右相となり、武攸寧が納言、邢文偉が守内史となった。王本立は宰相職を罷めて地官尚書に移った。
  • 武承嗣・武三思が政権中枢で勢いを振るい、宰相たちは皆これにへりくだった。
  • 韋方質は病床にあっても、見舞いに来た武承嗣・武三思に礼を取らず、「大丈夫が近戚に媚びて苟免を求めることはできない」と言った。まもなく周興らに陥れられ、甲午に儋州へ流され、家産も没収された。
  • 二月辛酉、太后は洛城殿で貢士を策問した。科挙受験者を宮中で試験する殿試は、ここに始まる。
  • 丁卯、王本立が薨じた。

三月〜四月・蘇良嗣・范履氷の死

  • 三月丁亥、蘇良嗣が薨じた。
  • 四月丁巳、春官尚書・同平章事の范履氷は、かつて逆党の者を推薦した罪を問われ、獄死した。

夏〜秋・侯思止・王弘義ら告密酷吏

  • 醴泉の侯思止は、もとは餅売りから高元礼の僕となった人物で、狡猾無頼であった。
  • 恒州刺史の裴貞が一判司を杖打ちしたことを恨んだその判司は、侯思止にそそのかされ、裴貞が舒王元名と謀反したと告発した。
  • 七月辛巳、舒王元名は廃されて和州へ移され、翌日にはその子の豫章王亶らも殺され、宗族は滅ぼされた。侯思止はこれにより遊撃将軍に抜擢された。
  • 侯思止は御史への任官を求めたが、太后が「字も読めぬのに務まるか」と問うと、「獬豸も文字は知らぬが邪を触く」と答えたため、かえって朝散大夫・侍御史に任じられた。
  • また、以前没収した反逆者の邸宅を賜ろうとすると、侯思止は「反逆者の家に住みたくない」と辞退し、太后の歓心を買った。
  • 衡水の王弘義もまた素行不良の人物で、日頃から私怨で人を陥れる者だった。
  • 彼は趙州・貝州で里老たちが共同斎戒していたのを謀反の会合と誣告し、二百余人を殺させて遊撃将軍、ついで殿中侍御史に昇った。
  • さらに勝州都督の王安仁を謀反と決めつけ、枷にかけたまま首を刎ね、その子も到着次第斬って首を箱詰めにして持ち帰った。
  • 道中では汾州司馬の毛公まで対座の途中に呼び下ろして斬り、その首を槍に掲げて洛陽へ入ったため、人々は震え上がった。

麗景門の制獄と徐有功・杜景儉・李日知

  • 麗景門内には制獄が置かれ、ここへ入った者は生きて出られないとされ、人々はこれを「例竟門」と呼んだ。
  • 朝士は互いに交際もできず、道では目で合図するだけとなり、朝に出るたび家族と今生の別れを告げる者すらいた。
  • こうした中で、司刑丞の徐有功と杜景儉だけは平恕を守り、告発された者たちは「来侯に当たれば死、徐杜に当たれば生」と言った。
  • 徐有功はもと蒲州司法で、任地では杖罰をほとんど用いず、官満ちても一人も杖打たなかった。累進して司刑丞となると、酷吏が陥れた者をたびたび救い、多くの家を生かした。
  • 太后の前で獄事を廷争したときも、左右が震えるほどの叱責に対して顔色を変えず、かえって論争を強めた。太后は好んで殺しても、その正直さは敬い恐れた。
  • 同じく司刑丞の李日知も寛平で、胡元礼が死刑にしようとした囚人について何度も争い、最後は両論を併記して上奏した結果、李日知の主張が認められた。

法明の『大雲経』と沢王・許王の死

  • 東魏国寺の僧・法明らは『大雲経』四巻を撰し、太后は弥勒が下生して唐に代わり、閻浮提の主となると説いて上奏した。これを天下に頒布した。
  • 武承嗣は周興に命じて、隋州刺史の沢王上金と舒州刺史の許王素節の謀反を誣告させた。
  • 素節は舒州を発つときに喪に遭ったと聞いて、「病死できるものなら、どうしてなお泣く必要があるか」と嘆いた。
  • 丁亥、龍門に着くと縊殺され、上金も自殺に追い込まれた。子らと縁党も皆誅された。

太平公主の再婚と宗室壊滅

  • 太后は太平公主を、伯父の武士讓の孫で右衛中郎将の武攸暨に再婚させようとし、ひそかに攸暨の妻を殺して公主を嫁がせた。
  • 太平公主は額が広く頤の張った相貌で、才略もあり、太后は自分に似ているとして格別に寵愛し、天下のことを密議するほどだった。
  • 食邑も諸王千戸、公主三百五十戸という旧制を超え、太平公主だけは累加して三千戸に達した。
  • 八月甲寅、裴居道が殺された。
  • 癸亥、張行廉が殺された。
  • 辛未、南安王潁ら宗室十二人が殺され、故太子賢の二子も鞭殺された。唐宗室はこの時ほとんど尽き、幼弱の者は嶺南へ流され、親党も数百家が誅された。
  • ただ千金長公主だけは巧みに媚びて助かり、自ら太后の娘となることを願って武姓に改め、延安大長公主と号した。

九月・国号「周」への改変

  • 九月丙子、侍御史の傅遊藝が関中の百姓九百余人を率いて上表し、国号を周と改め、皇帝に武姓を賜うよう請願した。太后は最初は許さず、傅遊藝を給事中に昇進させた。
  • すると百官・宗戚・遠近の百姓・四夷の酋長・僧道ら六万余人が同様の上表をし、皇帝自身も武姓を願い出た。
  • 戊寅には、明堂から鳳凰が上陽宮へ飛び、左台の梧桐にとまったとか、赤雀数万が朝堂に集まったなどの瑞祥が奏上された。
  • 庚辰、太后はついにこれを認め、天下に大赦し、唐を周と改め、年号も天授とした。
  • 乙酉、尊号を「聖神皇帝」とし、皇帝を皇嗣として武姓を与え、皇太子を皇孫とした。

武氏七廟・封王・新政権

  • 丙戌、神都に武氏七廟を立て、周文王を始祖文皇帝、妃を文定皇后とし、さらに架空に近い系譜をさかのぼって睿神康皇帝以下、武氏祖先に次々と帝号を追尊した。
  • 武承嗣を魏王、武三思を梁王、武攸寧を建昌王とし、武士彠の兄孫や一族の男子多数を郡王に、姑姉たちは長公主に封じた。
  • 司賓卿の史務滋を納言、宗秦客を検校内史、傅遊藝を鸞台侍郎平章事とした。傅遊藝は一年のうちに青・緑・朱・紫の官服を着るまでに昇進したため、世人はこれを「四時仕宦」と呼んだ。
  • 太后は州を郡に改めようとしたが、革命直後に「州」を廃するのは不祥だと諫められ、急いで取り消した。
  • 史務滋ら十人を諸道巡撫に出し、延基ら兄孫六人を郡王に立てた。

冬十月〜歳末・宗秦客失脚と大雲寺

  • 十月甲子、宗秦客は収賄で遵化尉に貶され、弟の楚客も姦贓で嶺外へ流された。
  • 丁卯、流人の韋方質が殺された。
  • 辛未、内史の邢文偉も宗秦客への追従を咎められて珍州刺史へ左遷され、まもなく制使が来ると、自分を誅するためだと思い込んで縊死した。
  • 壬申、両京と諸州に大雲寺を一寺ずつ建て、『大雲経』を蔵し、高座で講説させるよう命じた。経疏を作った僧の雲宣ら九人には県公の爵が与えられ、紫袈裟と銀亀袋も賜われた。
  • 天下の武氏一族には課役免除が与えられた。
  • 西突厥十姓は東突厥の侵掠で衰亡しており、濛池都護・継往絶可汗の斛瑟羅が残党六、七万人を率いて内地に入り、右衛大将軍・竭忠事主可汗に任じられた。
  • 道州刺史の李行褒兄弟が酷吏に陥れられて族誅されそうになると、徐有功は力を尽くして争った。周興は有功が反逆囚を助けたとして斬刑を求めたが、太后は許さず、官だけは免じた。
  • しかし太后はもとより有功を重んじており、やがて再び侍御史に起用した。有功は法官として法を曲げれば自分は死ぬ、と泣いて固辞したが、なお任じられ、人々は相賀した。
  • この年、太后は金宝を出して南北牙の弓の名手を競わせた。高句麗系の泉献誠が第一となったが、薛咄摩に譲ろうとし、さらに「漢官でない者ばかりが目立てば四夷が漢を軽んじる」と述べて競技自体の停止を願った。太后はこれを善しとした。