資治通鑑唐紀二十 則天順聖皇后 永昌 元年 629年
正月・改元と万象神宮大饗
- 正月乙卯朔、太后は万象神宮で大饗を行い、袞冕を着し大圭・鎮圭を執って初献を務めた。皇帝が亜献、太子が終献を担当した。
- まず昊天上帝を祀り、次いで高祖・太宗・高宗、さらに魏国先王、五方帝を配した。
- 太后は則天門に出て天下に赦し、改元した。
- 丁巳、明堂で朝賀を受け、戊午には九条を頒って百官を戒め、己未には群臣を饗した。
二月〜三月・武氏祖先追尊と陳子昂の上疏
- 二月丁酉、魏忠孝王を周忠孝太皇、妃を忠孝太后と尊び、文水陵を章徳陵、咸陽陵を明義陵とした。崇先府の官も置いた。
- 戊戌、さらに魯公・北平王・金城王・太原王ら武氏先祖に王号を追尊した。
- 三月甲子、張光輔が守納言となった。
- 壬申、太后が陳子昂に政治の要を問うと、子昂は退いて上疏し、刑を緩め徳を重んじ、兵を休め、賦役を減らし、宗室を慰撫して各々を安んじるべきだと説いた。その論旨は穏やかながら切実だった。
夏四月〜五月・宗室処刑と吐蕃戦
- 四月甲辰、辰州別駕の汝南王煒、連州別駕の鄱陽公諲ら宗室十二人が殺され、家族は嶲州へ移された。
- 己酉、天官侍郎の鄧玄挺も処刑された。娘が諲に嫁しており、煒や諲の復位計画を知りながら告げなかったとされた。
- 五月丙辰、韋待価が安息道行軍大総管となって吐蕃討伐を命じられた。
- 浪穹州の蛮酋・傍時昔ら二十五部は、それまで吐蕃に属していたが、この時に降り、傍時昔は浪穹州刺史に任ぜられて部衆を率いさせられた。
- 己巳、薛懐義が新平軍大総管となって北伐に出た。紫河に至っても敵を見ず、単于台に刻石して功を記しただけで帰還した。
紀王慎一族と楚媛
- 越王らの挙兵では、貝州刺史の紀王慎だけは計画に加わっていなかったが、それでも獄に繋がれた。
- 秋七月丁巳、檻車で巴州へ送られる途中、蒲州で死に、姓は虺氏に改められた。
- 八人の子も相次いで誅され、家族は嶺南へ移された。
- その娘・東光県主の楚媛は、幼少から礼を好み、夫の裴仲将と相敬い、姑に病があれば自ら薬を試し、妯娌にもよく接した。
- 当時の宗室女性が驕奢を競う中で、彼女だけは倹素を守り、「富貴で大切なのは志のままに礼を行うことだ」と言い、周囲を恥じ入らせた。
- 慎の凶報に接すると号泣して吐血し、喪が明けても二十年近く膏沐を用いなかった。
秋七月〜八月・韋待価の大敗と冤獄拡大
- 韋待価の軍は寅識迦河で吐蕃と戦って大敗した。待価には指揮の才がなく、狼狽して統制を失い、凍死・餓死する兵が多かったため撤退した。
- 丙子、太后は怒って韋待価を除名し、繡州へ流した。副将の閻温古は斬られた。
- 安西副都護の唐休璟は残兵を収めて西方を安定させ、その功で西州都督に任じられた。
- 戊寅、王本立が同鳳閣鸞台三品となった。
- 徐敬業の弟・徐敬真は流刑地の繡州から逃れて洛陽を経由したが、捕らえられた。彼に資金や便宜を与えた洛州司馬の弓嗣業や、洛陽令の張嗣明も関係を問われた。弓嗣業は縊死した。
- 張嗣明や徐敬真は、助命を狙って広く朝野の人士の名を挙げ、謀反の嫌疑をでっち上げたため、これに連座して死ぬ者が非常に多くなった。
八月・張光輔らの誅殺と魏元忠
- 張嗣明は、張光輔が豫州討伐の際に図讖や天文を論じ、二心があったと誣告した。
- 八月甲申、張光輔は徐敬真・張嗣明らとともに誅された。
- 乙未、張楚金・郭正一・元万頃・魏元忠らは死一等を減じて嶺南へ流された。
- 刑場で赦免の声が伝えられると、処刑予定者の多くは歓呼して取り乱したが、魏元忠だけは最後まで真偽を確かめ、詔が正式に宣されてからようやく立って礼をした。その表情に憂喜はなかった。
- この日、雲が四方を覆っていたが、彼らの釈放後に天候が晴れたという。
九月〜十月・魏玄同・黒歯常之の死
- 九月壬子、薛懐義が新平道行軍大総管となり、二十万を率いて突厥討伐を命じられた。
- 周興は、かつて自分の抜擢を邪魔したとして魏玄同を怨み続けており、玄同が「太后も老いたから、長く続く道は嗣君を立てることだ」と語ったと誣告した。
- 閏月甲午、魏玄同は自宅で死を賜った。監刑御史が密告して助命を図れと勧めたが、玄同は人が殺すのも鬼が殺すのも同じだとして拒み、告密者になることを恥じて死んだ。
- あわせて夏官侍郎の崔詧もひそかに殺された。内外の大臣で、死罪や流罪になる者はきわめて多かった。
- 彭州長史の劉易従も徐敬真の誣告により州で誅された。吏民はその無辜を憐れみ、衣を脱いで地に投げ、冥福を祈った。その価値は十余万にのぼった。
- 周興らはさらに黒歯常之を謀反で陥れ、下獄させた。冬十月戊午、常之は獄中で縊死した。
十月〜十一月・宗室流罪と陳子昂の獄政論
- 己未、宗室の嗣鄭王璥ら六人が殺された。庚申には嗣滕王脩琦ら六人が死一等を減じられて嶺南へ流された。
- 丁卯、范履氷・邢文偉が同平章事となった。
- 己卯、太穆神皇后と文徳聖皇后を地祇配祀の対象とし、忠孝太后を陪祀とする詔が出た。
- 右衛冑曹参軍の陳子昂は上疏し、今の政治は多く善いが、太平の朝に乱臣賊子が頻出するかのような処断が続くのはおかしいと論じた。
- 李珍らの無罪放免や、張楚金ら赦免の時に風雨が瑞雲へ変じたことを挙げ、これは天が徳政を望んでいる徴であるとし、疑獄の囚人を天子自ら召して詰問し、真に罪ある者は明示し、濫刑なら獄吏を厳罰にすべきだと説いた。
十一月・載初改元と文字改造
- 十一月庚辰朔は冬至にあたり、太后は万象神宮を祀り、天下に赦した。
- ここで周の正朔を用い、永昌元年十一月を「載初元年正月」とした。十二月を臘月、夏暦正月を一月とし、周・漢の後裔を二王後、舜・禹・成湯の後裔を三恪とした。
- 鳳閣侍郎の宗秦客は、天・地・日・月・星・君・臣・人・載・年・正など十二字の新字を作って献上し、丁亥に施行された。太后自身の名も「曌」としたため、「詔」も「制」に改められた。
- 宗秦客は太后の従姉の子であった。乙未、周興は唐の親属籍を廃することを奏した。
- 臘月辛未、薛懐義が右衛大将軍・鄂国公となった。