資治通鑑唐紀二十 則天順聖皇后 垂拱 四年 628年

春正月〜二月・宗廟議と明堂造営開始

  • 正月甲子、神都に高祖・太宗・高宗の三廟を建て、西京と同様に四時の祭祀を行わせた。さらに武氏祖先を祀る崇先廟も建てた。
  • 崇先廟の室数について、周悰は七室を求め、あわせて唐の太廟を五室に減らそうとした。
  • これに対し賈大隠は、天子七廟・諸侯五廟は不変の礼であり、武氏の廟は諸侯の数にとどめ、唐の宗廟を動かすべきでないと主張した。太后はこの意見を採った。
  • かねて議論がまとまらなかった明堂建設について、太后は諸儒を避けて北門学士とだけ相談し、二月庚午、乾元殿を壊してその地に明堂の造営を始め、僧の薛懐義に統轄させた。役夫は数万人に及んだ。

夏四月〜六月・郝象賢獄と「宝図」

  • 四月戊戌、太子通事舎人の郝象賢が殺された。太后は祖父の郝処俊を怨んでおり、奴婢の讒告を周興に取り調べさせ、一族処刑にまで及んだ。
  • 監察御史の任玄殖は無実を奏したが、かえって免官となった。
  • 郝象賢は処刑直前に太后を激しく罵り、宮中の秘密を暴露しようとしたため、その場で兵に殺された。死後も遺体は切断され、父祖の墓まで暴かれた。
  • 以後、法官は囚人の口を木丸で塞いでから処刑するのが常となった。
  • 武承嗣は白石に「聖母臨人、永昌帝業」と刻ませ、薬物を詰めて紫石に見せかけ、洛水で得た瑞石だとして献上させた。太后は喜び、これを「宝図」と名づけ、献上者の唐同泰を抜擢した。
  • 五月、太后は洛水で宝図を拝受し、南郊で昊天に告謝し、礼後に明堂で百官を朝見することを布告した。
  • 乙亥、尊号を「聖母神皇」と加えた。
  • 六月丁亥朔、日食が起こった。壬寅、神皇の三璽を作らせた。

東陽大長公主処分と狄仁傑の廟祀整理

  • 東陽大長公主は封戸を削られ、二子とともに巫州へ移された。高氏が長孫無忌の姻族にあたるため、太后に憎まれていた。
  • 江南道巡撫大使の狄仁傑は、呉楚地方に淫祠が多いことを奏し、千七百余所を焼かせた。ただし夏禹・呉太伯・季札・伍員を祀る四祠だけは残した。

秋七月・祥瑞演出と宗室への圧迫

  • 七月丁巳、天下に大赦し、「宝図」を「天授聖図」と改称、洛水を「永昌洛水」と呼び、その神を顕聖侯に封じて四瀆に準じて祭らせた。
  • 聖図の出た場所を聖図泉とし、そのそばに永昌県を置いた。
  • 嵩山を神岳と改め、山神を天中王に封じ、太師・持節・神岳大都督の号まで加え、周辺では放牧を禁じた。
  • さらに先に瑞石が出たという理由で汜水県を広武県と改称した。
  • このころ太后は革命をひそかに計画し、李唐宗室の有力者である韓王元嘉・霍王元軌・魯王霊夔・越王貞、その子らをとくに警戒した。
  • 黄公譔は病のたとえを用いた謎めいた書を越王貞に送り、危機を示唆した。太后が宗室を明堂の大礼に召すと、諸王は一斉検挙の口実ではないかと恐れた。
  • 譔は皇帝の璽書を偽作して琅邪王冲に「朕は幽閉された、兵を起こして救え」と促し、さらに太后が李氏の社稷を武氏へ移そうとしていると触れ回った。

八月〜九月・琅邪王冲の挙兵と敗死

  • 八月壬寅、琅邪王冲は長史の蕭徳琮らに募兵を命じ、韓王・霍王・魯王・越王・紀王慎にも連絡して、各地から神都へ向かう計画を立てた。
  • 太后は丘神勣を清平道行軍大総管に任じて討伐させた。
  • 冲は五千余人を集め、黄河を渡って済州を取ろうとし、まず武水を攻めた。
  • 武水令の郭務悌が魏州へ救援を求め、莘県令の馬玄素が一七〇〇人を率いて迎撃した。力では劣ったため武水城に籠城し、冲軍は草車で南門を塞いで火攻めしたが、風向きが変わって失敗し、士気が挫けた。
  • 将の董玄寂が「これは国家への反逆だ」と漏らしたため冲は斬って見せしめにしたが、兵は恐れて散り、ついに数十人の側近を除いて潰散した。
  • 冲は博州へ逃げ帰ったが、戊申、城門で門番に殺された。挙兵からわずか七日だった。
  • 丘神勣は博州に着くと、喪服で迎えた官吏まで皆殺しにし、千戸余りを破滅させた。

九月・越王貞の挙兵と敗北

  • 越王貞も豫州で挙兵し、上蔡を陥れた。
  • 九月丙辰、麴崇裕を中軍大総管、岑長倩を後軍大総管として十万を率いさせ、張光輔を節度使として総指揮に当てた。あわせて冲を宗籍から削り、姓を虺氏に改めた。
  • 貞は冲敗死を聞いていったん自縛降伏を考えたが、傅延慶が勇士二千余を集めたため翻意し、「琅邪王は破れておらず、魏州方面から二十万が来る」と兵を鼓舞した。
  • 属県の兵を合わせて五千、九品以上の官を五百余人も任じたが、実際には脅されて従う者が多く、戦意は乏しかった。
  • 貞は裴守徳を腹心として娘を嫁がせ、大将軍に任じた。また道士や僧に読経させ、兵に避兵符を持たせた。
  • 官軍が豫州城東四十里に迫ると、少子の規と裴守徳を出したが敗走した。貞は城に閉じこもり、最後は規・守徳・妻とともに自殺した。冲とともに首は東都の闕下にさらされた。

諸王連携失敗と常楽長公主の言葉

  • 范陽王藹は、諸王が同時に起てば事は成ると越王貞と琅邪王冲に伝えていたが、冲が先走りし、貞だけが狼狽して応じたため、他の王は決起できずに終わった。
  • 貞が寿州刺史の趙瓌に使者を送ったとき、趙瓌の妻である常楽長公主は、隋の簒奪に対する尉遅迥の例を挙げ、李氏の宗王たる者は社稷のため命を捨てるべきだと烈しく促した。

諸王粛清と狄仁傑の豫州善政

  • 貞の敗死後、太后は韓王元嘉・魯王霊夔らも皆殺しにしようとし、監察御史の蘇珦に密状の実否を調べさせた。
  • 蘇珦は確かな証拠がないと報告したが、逆に共謀を疑われた。それでも屈せず論じたため、太后は彼を河西監軍に回し、別に周興らに再調査させた。
  • その結果、韓王元嘉・魯王霊夔・黄公譔・常楽公主らは東都で自殺に追い込まれ、姓は虺氏に改められ、親党まで誅された。
  • 豫州では越王党として六、七百家が罪に問われ、没収される者は五千口に及んだ。狄仁傑が刺史として赴任すると、彼らの多くは巻き添えだとして密奏し、死刑を免れさせて豊州流罪へ改めさせた。
  • 流人たちが寧州を通過した際、父老たちは「狄使君が命を救ってくれた」と言って徳政碑の下で泣き、三日間斎を設けた。
  • 張光輔は軍功を笠に着た兵の略奪を黙認し、狄仁傑が拒むと「州将の分際で元帥を軽んずるのか」と怒った。
  • 狄仁傑は、「乱を起こしたのは越王貞一人なのに、降人を殺し掠奪すれば万の貞を生む」と面と向かって非難した。張光輔はこれを奏して、狄仁傑は復州刺史へ左遷された。

秋〜冬・融・薛氏・霍王らの誅殺

  • 丁卯、騫味道・王本立が同平章事となった。
  • 東莞公融は、事前に高子貢から「神都へ行けば死ぬ」と警告されて病を称し、越王貞からも誘われたが応じきれず、使者を捕らえて届けたため一時は褒賞された。だがまもなく連座で市で処刑され、高子貢も誅された。
  • 済州刺史の薛顗・弟の薛緒・駙馬都尉の薛紹は琅邪王冲と通じた疑いで処刑された。薛紹だけは太平公主の夫であったため死刑を免れた形となったが、杖刑百のうえ獄中で餓死した。
  • 十二月乙酉、霍王元軌は越王との連座で黔州へ流される途中、陳倉で死んだ。江都王緒・裴承先も市で処刑された。

歳末・騫味道誅殺と明堂完成

  • 裴居道が西京留守となった。
  • 騫味道は日頃から殿中侍御史の周矩を軽んじていたが、告発があると太后は周矩に調査させた。周矩は恨みを晴らすように厳しく処理し、乙亥、騫味道とその子の辞玉は処刑された。
  • 己酉、太后は洛水で図を受けた儀式を行い、皇帝・皇太子も随従した。珍禽・奇獣・宝物を壇前に並べ、その行列は唐建国以来もっとも壮麗だった。
  • 辛亥、明堂が完成した。三層構造で、高さ二百九十四尺、方三百尺、四時・十二辰・二十四気を象徴する意匠を備え、中央には巨大な通し柱を立てた。
  • 建物は「万象神宮」と名付けられ、群臣に宴賜し、天下に赦し、民衆の見物も許した。河南県を合宮県と改め、さらに北に天堂を築いて大仏を納めた。
  • 薛懐義はこの功で左威衛大将軍・梁国公に進んだ。

王求礼・陳子昂の諫言

  • 侍御史の王求礼は、古の明堂は質素であったのに、今の明堂は珠玉・丹青・金龍で飾られ、殷紂や夏桀の奢侈にも劣らないと上書したが、太后は答えなかった。
  • 太后は梁・鳳・巴・蜑の兵を動員し、雅州から道を開いて生羌を討ち、さらに吐蕃を襲おうとした。
  • これに対し陳子昂は、これまで雅州辺の羌は反乱していないのに無罪で討てば必ず禍根を残し、道を開けば吐蕃に蜀へ入る道を与えることになると論じた。
  • 蜀は国家の宝庫であり、今兵を興し大役を起こすのは、地利も乏しく民力を傷つけるだけだとし、安北・単于・龜茲・疏勒の放棄が称賛されたのは、人を養い土地を争わぬ徳政だったからだと説いた。
  • この計画は結局実施されなかった。