資治通鑑唐紀二十 則天順聖皇后 垂拱 三年 627年

閏正月・皇子の封王

  • 閏正月丁卯、皇子の成美を恒王、隆基を楚王、隆範を衛王、隆業を趙王に封じた。

二月〜三月・突厥侵攻と人事

  • 二月丙辰、突厥の骨篤禄らが昌平に侵入したため、左鷹揚大将軍の黒歯常之に諸軍を率いさせて討たせた。
  • 三月乙丑、納言の韋思謙が致仕した。

夏四月〜五月・西京留守と劉禕之の死

  • 四月、蘇良嗣が西京留守に任じられた。裴匪躬が京苑の野菜や果実を売って利益を得ようとしたが、蘇良嗣が皇帝の苑で商売をするのは不体裁だとして止めさせた。
  • 壬戌、裴居道が納言となった。
  • 五月丙寅、張光輔が同平章事となった。
  • 同月、鳳閣侍郎の劉禕之は、太后が「暗君を廃し明君を立てた」以上、なおも臨朝称制を続けるべきではなく、政権を皇帝に返すべきだと私かに語ったが、賈大隠がこれを密奏した。
  • 太后は激怒し、さらに劉禕之が孫万栄から金を受けたとか、許敬宗の妾と私通したなどの嫌疑も加え、王本立に取り調べさせた。
  • 劉禕之は、鳳閣・鸞台を経ていない命令を正式な勅と認めず、これが命令への抵抗と見なされ、庚午に自宅で死を賜った。
  • 睿宗が弁護の上疏を出したことは、かえって太后の疑いを強めた。劉禕之は臨刑の際も落ち着いて謝表を書き上げたが、それを褒めた郭翰・周思鈞は左遷された。

秋七月・嶺南の反乱と突厥撃破

  • 七月壬辰、魏玄同が検校納言となった。
  • 嶺南では、俚人が従来の半課から全課への増徴に反発し、交趾都護の劉延祐が首謀者を殺したため、李思慎らが反乱を起こして安南府城を落とし、劉延祐を殺した。
  • 桂州司馬の曹玄静が討伐して李思慎らを斬った。
  • 同じころ、骨篤禄・元珍が朔州に侵攻したため、黒歯常之が李多祚を副将として迎撃し、黄花堆で大勝した。突厥軍は四十余里追撃され、砂漠の北へ散り散りに逃れた。
  • 李多祚は靺鞨の酋長の家系で、軍功により宿衛に入っていた。黒歯常之は恩賞を部下に分け与え、私馬を傷つけた兵にも私情で刑を加えなかった。

九月〜十月・内乱未遂と軍の敗北

  • 九月己卯、虢州の楊初成が偽って郎将を名乗り、勝手に募兵して房州の廬陵王を迎えようとしたが、発覚して処刑された。
  • 十月庚子、右監門衛中郎将の爨宝璧が突厥と戦って全軍を失い、自身だけ軽騎で逃げ帰った。
  • 爨宝璧は黒歯常之の戦果に刺激され、彼と協議せよとの命令を待たず功を独占しようとして、精兵一万三千で先行した。
  • ところが出塞して二千里余り進んだところで、かえって先に敵へ情報を漏らしてしまい、備えを固められた末に敗北した。
  • 太后は爨宝璧を誅し、骨篤禄を「不卒禄」と呼ばせた。
  • また魏玄同を西京留守とした。

十一月〜歳末・李孝逸処分と監軍廃止

  • 武承嗣は李孝逸にも謀反の疑いをかけ、名に「兎」があることを、月に結びつけて天子の分に通じると讒言した。太后は功績を考慮して死一等を減じ、官爵を奪って儋州へ流したが、やがてその地で死んだ。
  • 太后は韋待価を吐蕃討伐の将にしようとしたが、韋方質が従来どおり御史の監軍を付けるべきだと述べた。
  • これに対し太后は、将軍に全権を委ねず監軍が細事まで統制するのは下が上を制することであり、古法に合わないとして、監軍制度をやめた。
  • この年は大飢饉となり、とくに山東・関内の被害が深刻だった。