資治通鑑唐紀 則天順聖皇后 垂拱 二年 626年

春正月・返政の形式

  • 皇太后は皇帝へ政権を返すとの詔を出した。睿宗は本心ではないと見抜き、上表して固辞したため、皇太后は再び臨朝称制した。
  • 辛酉、天下を赦した。
  • 二月辛未朔、日食があった。

李孝逸の左遷

  • 右衛大将軍李孝逸は徐敬業を破ったことで声望が高まった。武承嗣らはこれを憎み、皇太后へ繰り返し讒言したため、施州刺史へ左遷された。
  • 施州は漢の巫県方面で、呉の沙渠県、後周の施州、隋の清江郡を経て唐に再置され、京師から二千七百九里、東都から二千八百十里とされた。

三月・銅匭の設置

  • 戊申、皇太后は銅製の四つの投書箱を造らせた。東の「延恩」は文章を献じて仕官を求める者、南の「招諫」は政治の得失を論じる者、西の「伸冤」は冤罪を訴える者、北の「通玄」は天文・災異・軍機・秘計を述べる者に用いた。箱は方位に応じた色とされた。
  • 正諫・補闕・拾遺から各一人を管理者とし、身元保証人を確認した後に投書を許した。正諫は諫議大夫、左右補闕は従七品上、左右拾遺は従八品上で、左右史の下位に列し、左は門下省、右は中書省に属した。
  • 魚承曄の子魚保家は徐敬業に刀車や弩を製作させたが、乱後かろうじて罪を免れていた。皇太后が民間事情を探ろうとしていると知り、天下の密奏を受ける銅匭を提案した。内部を四区画に分け、上の穴から文書を入れると取り出せない構造だった。製作時期や発案者名には異説があるが、実録と『御史台記』に従う。
  • ほどなく魚保家の怨家が投書し、徐敬業の兵器を作って官軍を多数殺傷したと告発したため、保家は処刑された。

告密政治の拡大

  • 皇太后は徐敬業の乱後、天下に自分を害そうとする者が多いと疑った。長く国政を専断し、私生活にも問題があるため、宗室・大臣が不満を抱いていると知り、大規模な粛清で威圧しようとした。
  • 告密者は臣下の尋問を受けず、身分が農夫や樵夫でも駅馬と五品官相当の食事を与えられ、行在へ召されて客館で給養された。内容が意にかなえば序列を飛び越えて官を授けられ、虚偽でも処罰されなかった。唐の駅伝では品位に応じて二匹から八匹、伝馬では一匹から十匹を給し、五品官の食料には米・麺・酒・羊肉・野菜などの規定があった。
  • そのため告密者が蜂起し、人々は足を重ね、息を潜めるほど恐れた。

索元礼・周興・来俊臣

  • 胡人の索元礼は皇太后の意図を察して告密し、遊撃将軍に抜擢され、詔獄の取り調べを命じられた。残忍な性格で、一人を調べれば数十人、数百人を共犯として挙げさせた。皇太后は頻繁に召見して賞賜を与え、その威勢を強めた。
  • 尚書都事の周興、万年県の来俊臣らがこれをまねた。周興は秋官侍郎、来俊臣は御史中丞に昇り、無頼数百人を私兵同然に養った。尚書都事は都省で各司の主事・令史を統括した。
  • 彼らは標的を陥れる時、複数の場所から同一内容を告発させた。来俊臣は司刑評事の万国俊と『羅織経』数千言を作り、無実の者を網にかけ、反逆の筋書きを組み立てる方法を教えた。司刑は大理寺の改称で、評事は従八品、出使して取り調べを担当した。

酷吏の拷問

  • 索元礼らは「定百脈」「突地吼」「死猪愁」「求破家」「反是実」などと名づけた拷問を競った。
  • 梁木に手足を固定して回転させる「鳳凰晒翅」、腰を縛り枷を前へ引く「驢駒抜橛」、跪かせて枷の上へ煉瓦を積む「仙人献果」、高木に立たせ枷の尾を後方へ引く「玉女登梯」などがあった。
  • 逆さ吊りにして頭へ石を下げ、酢を鼻へ注ぎ、鉄輪で頭を締めて楔を打つこともあり、脳が裂け髄が出る者までいた。
  • 囚人には先に拷問具を見せたため、皆が恐怖して虚偽の自白をした。赦令が出る時には、来俊臣は公布前に重罪囚を殺した。皇太后はこれを忠勤とみなし、いよいよ寵任したため、内外の人々は彼らを虎狼以上に恐れた。

陳子昂の詔獄批判

  • 陳子昂は、徐敬業の党類を尽くそうとして詔獄と重刑を広げた結果、疑わしい関係だけで逮捕され、讒言者が恩賞を求めて私怨を晴らしていると上疏した。
  • 揚州の乱は五十日足らずで鎮まり、天下は動かなかったのに、静かな政治で疲弊した民を救わず、威刑によって期待を失わせていると批判した。
  • 告密による囚人は百千人に及ぶが、真実は百件に一件もなく、皇太后が虚偽告発者を許すため、わずかな怨みで一人を訴え、百人が獄を満たす状態だとした。
  • 隋末、楊玄感の乱後に煬帝が樊子蓋へ党類の大量処刑を任せた結果、豪傑がことごとく災難に遭い、人々が反乱を志して隋が滅びた例を挙げた。大獄には必ず冤罪が生じ、怨嗟が和気を傷つけ、疫病・水旱・失業・反乱を招くと論じた。
  • さらに漢武帝の巫蠱の獄では太子が宮門で戦い、無実の者が多数死んだが、壺関三老の書によって武帝が悟り、江充一族を滅ぼして残余を不問にしたため天下が安定したと述べ、「前事を忘れないことが後事の師である」と戒めた。しかし皇太后は聞き入れなかった。

夏・大儀鋳造と宰相人事

  • 夏四月、皇太后は「大儀」を鋳造して北闕、すなわち玄武門外とみられる場所へ置いた。岑長倩を内史とした。
  • 六月辛未、蘇良嗣を左相・同鳳閣鸞台三品、韋待価を右相とした。
  • 己卯、韋思謙を納言とした。

蘇良嗣と僧懐義

  • 蘇良嗣が朝堂で僧懐義に会うと、懐義は傲慢で礼を取らなかった。良嗣は怒り、側近に引き倒させ、頬を数十回打たせた。
  • 懐義が皇太后へ訴えると、皇太后は、師は北門から出入りすべきで、南衙は宰相の通路だから侵してはならないと言った。
  • 皇太后は懐義に巧妙な技術があるため禁中で造営させていると説明した。
  • 補闕で長社の王求礼は、太宗が琵琶の名手羅黒黒を宦官にして宮人を教えさせた例を挙げ、懐義を宮中で働かせるなら去勢して宮闈を乱さないようにすべきだと上表した。表は留め置かれ、公表されなかった。

秋・西突厥継承と「慶山」

  • 秋九月丁未、西突厥の継往絶可汗の子・阿史那斛瑟羅を右玉鈐衛将軍とし、父の可汗号を継がせて五弩失畢部落を統率させた。
  • 己巳、雍州は新豊県東南に山が地中から出現したと報告した。新豊県を慶山県と改称し、各地が祝賀した。
  • この山は雷雨で突然三百尺になったのではなく、初め六、七尺から日々土を積み上げた人為的なものと考えられる。両京道里志は高さが徐々に増したと記しており、瑞祥として作られたことは明白だと胡三省は論じる。
  • 江陵の俞文俊は、天候の不調は寒暑の併発、人の不調は疣、地気の不調は丘の出現となると述べた。女性の君主が陽位に立って剛柔を逆転させたため地気が塞がり、山の出現という災異が生じたので、慶事ではないとした。
  • 皇太后に身を慎み徳を修めるよう求め、従わなければ災禍が来ると警告したため、嶺南へ流された。後に六道使によって殺された。六道使は長寿二年の記事に見える。

黒歯常之の突厥撃退

  • 突厥が侵入すると、左鷹揚衛大将軍黒歯常之が迎え撃った。両井で突厥三千余人に遭遇し、敵が下馬して甲冑を着ける間に、二百余騎で突撃して敗走させた。
  • 日暮れに突厥の大軍が現れると、常之は陣中に火を焚かせた。東南にも火が上がったため、突厥軍は唐の援軍と呼応していると疑い、夜のうちに退却した。

狄仁傑の徴召

  • 狄仁傑が寧州刺史であった時、右台監察御史で晋陵の郭翰が隴右を巡察し、多くの官吏を弾劾した。
  • 寧州に入ると、道中は狄仁傑の善政を歌う老人で満ちていた。郭翰は朝廷へ推薦し、狄仁傑は冬官侍郎として徴召された。