春正月・改元と劉仁軌の死
- 正月丁未朔、天下を赦し、垂拱と改元した。
- 皇太后は徐思文が朝廷に忠実だったとして連座を免じ、司僕少卿とした。徐敬業が彼に武姓を名乗らせたことについて、皇太后は改めて奪わないと述べた。実録には徐思文自身が武姓を願ったとあるが、皇太后の発言を受けた申請と考えられる。
- 庚戌、騫味道を守内史とした。
- 戊辰、文昌左相・同鳳閣鸞台三品・楽城文献公の劉仁軌が死去した。文昌左相は尚書左僕射の改称である。
登聞鼓・肺石と宰相人事
- 二月癸未、朝堂の登聞鼓と肺石に番人を置かず、鼓を打つ者、石上に立つ者があれば御史が訴状を受けて奏聞するよう命じた。登聞鼓は西朝堂、肺石は東朝堂にあった。
- 乙巳、春官尚書武承嗣、秋官尚書裴居道、右粛政大夫韋思謙を同鳳閣鸞台三品とした。春官は礼部、秋官は刑部の改称、右粛政大夫は右御史大夫に当たる。
突厥との戦いと宰相交替
- 阿史那骨篤禄らがたびたび国境を侵したため、左玉鈐衛中郎将淳于処平を陽曲道行軍総管として討伐させた。陽曲県は漢以来太原郡に属し、隋代の陽直・唐初の汾陽を経て陽曲と改称された。
- 正諫大夫・同平章事の沈君諒が罷免され、三月には崔詧も罷免された。
- 丙辰、廬陵王を房州へ移した。房州は古い麇・庸二国の地で、京師から千百九十五里、東都から千百八十五里とされた。
- 辛酉、武承嗣が宰相を罷免された。
- 辛未、『垂拱格』を公布した。
騫味道の左遷
- 左遷された朝士が宰相へ自訴した際、内史騫味道は皇太后の処分だと答えた。一方、劉禕之は、連座による官職変更は臣下の奏請によると説明した。
- 皇太后は、君臣は一体なのに悪評を君主へ押しつけ、善評を臣下が取るべきではないと怒った。夏四月丙子、騫味道を青州刺史へ貶し、劉禕之には太中大夫を加えた。太中大夫は従四品上で、劉禕之の本官である王府司馬は従四品下だった。
忻州敗戦と広い自薦
- 癸未、突厥が代州へ侵入した。淳于処平は救援したが、忻州で敗れ、五千余人が死亡した。
- 丙午、裴居道を内史とした。納言王徳真を象州へ流した。象州は京師から四千九百八十九里とされた。
- 己酉、冬官尚書蘇良嗣を納言とした。冬官は工部の改称である。
- 壬戌、内外九品以上と庶民に対し、才能がある者は自ら名乗り出るよう命じた。
- 壬申、韋方質を同鳳閣鸞台三品とした。
- 六月、天官尚書韋待価を同鳳閣鸞台三品とした。天官は吏部の改称で、待価は韋万石の兄である。
同羅・僕固の反乱
- 同羅・僕固などの諸部族が反乱した。左豹韜衛将軍劉敬同は河西の騎兵を率い、居延海方面へ出撃した。
- 居延海へは甘州刪丹県北で張掖河を渡り、合黎山峡口から河沿いに東北へ千里進む。寧寇軍の東北に位置した。
- 同羅・僕固は敗散した。降伏者を収容するため、安北都護府を同城へ仮置きした。同城は刪丹の同城守捉で、天宝二載に寧寇軍と改められた。
秋・祭祀制度と広州平定
- 秋七月己酉、文昌左丞魏玄同を鸞台侍郎・同鳳閣鸞台三品とした。
- 今後、天地を祭る時には高祖・太宗・高宗をすべて配享すると詔した。これは鳳閣舍人元万頃らの議論による。
- 九月丁卯、広州都督王果が反乱した獠人を討って平定した。
冬・西突厥の可汗継承
- 十一月癸卯、天官尚書韋待価を燕然道行軍大総管とし、吐蕃討伐を命じた。
- 西突厥では興昔亡継往絶可汗の死後、十姓部族に君主がなく離散していた。皇太后はその子で左豹韜衛翊府中郎将の阿史那元慶を左玉鈐衛将軍兼崑陵都護とし、興昔亡可汗を継がせて五咄陸部落を統率させた。唐の諸衛には翊府中郎将・郎将が置かれていた。
陳子昂の地方政治論
- 麟台正字で射洪の陳子昂は、巡察使、刺史、県令には必ず適任者を選び、軍役に疲れた民を安んじるべきだと上疏した。麟台は秘書省の改称で、正字は正九品下、文字の校訂を担当した。射洪県は漢の郪県から分かれた射江県が訛って射洪となった。
- 陳子昂は、使者が不適任なら賞罰が乱れ、徒党が進んで忠直が退き、民衆が送迎や道路整備に疲れるとした。人を知るにはその使者を見よ、という諺を引いた。
- 宰相は君主の腹心、刺史・県令は手足であり、これらを欠いて天下を治めることはできないと論じた。
- 天下の危機は民心にあり、民が安ければ生を楽しみ、不安なら死を軽んじ、妖逆が機に乗じると警告した。隋煬帝が貪欲な佞臣を信じて外征の利益を求め、滅亡したことを大きな戒めとすべきだとした。皇太后は採用しなかった。
白馬寺と僧懐義
- 皇太后は古い白馬寺を修築し、僧懐義を寺主とした。白馬寺は漢明帝の時、西域から白馬に仏典を載せて洛陽へ運んだことにちなむ。所在地は漢魏の旧洛陽城で、隋以後の洛陽城とは異なる。
- 懐義は鄠県の人で、本姓は馮、名は小宝といい、洛陽市場で薬を売っていた。千金公主の紹介で皇太后の寵愛を得た。禁中へ出入りさせるため剃髪して懐義と改名させ、寒門出身を隠すため、駙馬都尉薛紹と同族ということにして、薛紹に叔父として仕えさせた。薛紹は太平公主の夫である。
- 懐義は御馬に乗り、宦官十余人を従えた。道で出会う者は逃げ、近づく者は頭を打たれて流血し、生死を放置された。道士を見ると殴って髪を剃り、朝廷の貴族も平伏して礼を取った。武承嗣・武三思も僕従の礼を取り、自ら手綱を執った。
- 懐義は無頼の少年を多数僧にして横暴を許した。右粛政台御史馮思勗がたびたび法で取り締まったため、懐義は路上で出会うと従者に殴らせ、瀕死にした。