資治通鑑唐紀十八 高宗天皇大聖大弘孝皇帝 調露 元年 619年
東都行幸と上陽宮問題
- 春正月、高宗は東都へ赴いた。
- 司農卿韋弘機が宿羽・高山・上陽などの宮を壮麗に造営し、とくに上陽宮は洛水に臨む長廊が一里に及んだ。
- 高宗はそこへ移り住んだが、侍御史狄仁傑は、韋弘機が帝を奢侈へ導いているとして弾劾し、弘機は免官となった。
- また左司郎中王本立が恩寵を恃んで横柄に振る舞っていたので、狄仁傑はその奸を奏し法司に付すよう求めた。高宗は特赦しようとしたが、狄仁傑は法を損なうなら自分を見せしめに追放せよとまで迫った。
- ついに王本立は処罰され、これ以後、朝廷の規律は引き締まった。
戴至徳の死と吐蕃王位継承
- 庚戌、右僕射・太子賓客の戴至徳が死去した。
- 二月、吐蕃の賛普が死去し、八歳の器弩悉弄が立った。実権者論欽陵は弟を擁立できる立場にあったが、それをせず、器弩悉弄を立てた。
- 高宗は訃報を聞き、裴行儉に乗じて吐蕃を図るよう命じたが、行儉は、欽陵政権はなお安定しており、今は機ではないと判断してこれを止めた。
郝処俊の再任と明崇儼暗殺
- 夏四月、郝処俊を侍中とした。
- 偃師の明崇儼は符呪・幻術で帝と天后に重んじられ、正諫大夫にまでなっていたが、五月、賊に殺された。
- 当初は多くの者が連座の危険にさらされたが、最終的に真犯人が見つかり、乱暴な処罰は避けられた。
- 崇儼には侍中が追贈された。
太子監国と紫桂宮
- 丙戌、皇太子に監国を命じた。太子の裁決は明敏で、世の評判は高かった。
- 戊戌、澠池西方に紫桂宮を造営し、六月に完成した。
- その六月、天下に大赦を行い、改元した。
裴行儉の西域作戦
- 西突厥十姓の可汗阿史那都支とその別帥李遮匐は吐蕃と結び、安西を脅かしていた。朝廷は西征を議したが、裴行儉は正面派兵に反対した。
- ちょうど波斯王が死に、その子泥洹師が長安で人質となっていたので、行儉はこれを送り返す名目で西へ赴き、途中で都支らを計略で捕らえる案を出した。
- 高宗はこれを採用し、行儉を波斯王冊立使・安撫大食使に任じ、王方翼を副官兼安西都護代行とした。
- 行儉は西州で豪傑の子弟千人余りを集めて随行させ、わざと暑さのためまだ進まないように見せかけた。都支は油断した。
- 行儉は四鎮諸胡の酋長を招き、昔の狩猟の楽しみを口実に近隣の若者一万人近くを集めて軍隊化し、急進して都支の部落近くに至った。
- 使者を重ねて安心させたうえで都支を招き、迎えに出たその場で捕らえた。さらに契箭を使って諸部酋長を呼び集め、遮匐にも都支捕縛の事実を知らせて降服させた。
- 都支・遮匐を捕えて帰国し、泥洹師はそのまま波斯へ帰らせ、王方翼は安西に留めて碎葉城を築かせた。
東突厥の反乱
- 冬十月、単于大都護府下の突厥諸部、阿史徳温傅・奉職らが叛き、阿史那泥熟匐を可汗に立てた。二十四州の酋長が呼応し、兵は数十万に膨れた。
- 蕭嗣業・花大智・李景嘉らが討伐に向かったが、序盤の勝利に乗じて備えを怠ったところ、大雪の夜襲を受けて大敗した。
- 大智・景嘉は歩兵を率いて単于都護府へ逃げ込み、嗣業は死罪を減じて桂州流罪、大智・景嘉は免官となった。
霍王元軌の処置と北辺防備
- 突厥が定州に迫ると、刺史霍王元軌は城門を開き、旗を伏せて虚実を隠した。敵は伏兵を疑って夜のうちに退いた。
- 州人李嘉運が突厥と通じていたことが判明したが、高宗が党与の徹底追及を命じたのに対し、元軌は人心を乱すだけだとして嘉運のみを処刑し、他は問わなかった。
- 自ら違制を劾したが、高宗はかえって称賛し、以後大事には密勅で意見を求めることが多くなった。
- 壬子、曹懐舜を井陘、崔献を龍門に置いて突厥へ備えた。
- また突厥が奚・契丹を扇動して営州を侵すと、都督周道務配下の唐休璟がこれを破った。
- 庚申、突厥の叛乱を理由に、再び嵩山封礼は中止された。
吐蕃との弔問・和親交渉
- 癸亥、吐蕃の文成公主が大臣論塞調傍を派遣し、賛普の喪を告げ、和親を求めた。
- 高宗は宋令文を吐蕃へ送って弔問に参会させた。
裴行儉の対突厥大遠征
- 十一月、高智周は御史大夫となって宰相職を離れた。
- 裴行儉は文武兼資を称賛され、礼部尚書兼検校右衛大将軍となり、さらに定襄道行軍大総管として三十余万を統率し、程務挺・李文暕ら東西両軍を節度して突厥討伐に当たることになった。